考古学や文献からひもとく岩戸山古墳(1)

「岩戸山古墳」古文献に探る地名の由来

もう20年以上も前のことですが、長峰小学校講堂で岩戸山古墳に関する講演会がありました。一人の小学生が質問に立ち、「なぜ岩戸山というのですか」と尋ねましたが、主催者側からの明快な返答がないまま講演会が終了したことを思い出します。

その時の小学生も現在では30歳代かと推察しますが、当時の情報量を窮う一つのエピソードかと思います。

岩戸山(地名)の初見は

地名の岩戸山が、史料の中に初めて出るのは管見の限り、『寛文十年久留米藩社方開基』(1670)で、「一、岩戸山 松尾大明神」とあります。しかしここでは、なぜ岩戸山なのか、という地名由来については説かれていません。
江戸時代中頃に古賀組大庄屋(現在の広川町古賀)を務めた、稲員孫右衛門安則が記した『家勤記得集』(元禄9年・1696)では、吉田村北の岡と表現し、古墳や石人石馬の存在を指摘して、丘陵一帯を人形原と称することなどを説明していますが、岩戸山という地名の由来には全くふれていません。

岩戸山に関わる二つの古文書

横山茂利さん(故人)が筆者の所に「筑後国上妻郡吉田邑岩戸山由来」と題する古文書のコピーを持参されたのが平成10年4月のことで、初めて岩戸山の地名由来に関する史料に接することができました。文中には「水精堂千葉一陶、おそれミつつしミ筆を染るは文化六巳(1809)年弥生月初の日」とあります。水精堂千葉一陶なる人物には興味津々ながらも、さっぱり分りませんし、筆者が読んだのはコピーで、そのオリジナルがどこの誰の所蔵なのかは、今なお分からずじまいです。

ひょんなきっかけで、久留米市在住の方が「岩戸山辞」と題する3.86メートルにも及ぶ長文の巻物を所蔵されることを知りました。つてを頼って解読と活字化の承諾をいただきました。文言はというと実にくどく難解な言い回しの上、変体仮名には苦労しました。読み終えてみると、「岩戸山辞」には落款も整っており、「筑後国上妻郡吉田邑岩戸山由来」の原本であると確信するに至りました。余談ながら「岩戸山辞」は後日に筆者が譲り受け、現在は広川町指定文化財(古文書)となっています。

岩戸山梓

「岩戸山梓」の頭書の部分

倉員市右衛門筆、文化6年(1809)

天の岩戸に由来する地名だった

「岩戸山辞」によりますと、
(前略)筑後国かむつまのこほり吉田の庄岩戸山は、かけまくも天照大御神の日向国に天降ませし時、しはしととまらせ給し行宮のあとかたなるをや(後略)
とあり、また巻末の追記には、
一、同岩戸山と名つけしは、岩穴あるゆへ、天の岩戸の故事をおもいとりて、名つけつらん
のように述べられています。

さて水精堂千葉一陶なる人物ですが、「奇聞雑記」(編者年代不詳)の中に"六助の鎧"の一項があって、(前略)爰に上妻郡吉田村の住、下見役倉員市右衛門字ハ一陶(後略)とあって、ここに人物の特定ができた次第です。

岩戸山という地名呼称は、江戸時代の初期には既に地元にあったものの、その由来については周知されたものではなかった。その由来を理論づけたのがこの「岩戸山辞」(文化6年・1809)にほかなりません。

倉員市右衛門が「岩戸山辞」を著して4年後の同10年、日向佐土原の修験者である野田成亮が、岩戸山古墳を訪ねています。彼は、“稲妻や 人形が原の魂よばい” の句が、向井去来の作であると指摘したことでも知られています。彼が残した「日本九峰修行日記」の中に、
(前略)当処(馬場村)より戌亥(北西)に当たり一里に、吉田村と云ふがあり、此所へ岩戸山とて高さ九八間、廻り一丁半の山あり。上に天照大神を勧請せり。此神明日向の天の岩戸より飛来り玉ふと伝ひ伝ふ(後略)。
のような記述があります。

野田成亮が岩戸山古墳を訪ねた折りには、地元に住み岩戸山の由来などに詳しい倉員市右衛門に会って、何やかやと情報交換をしたのではないかと思えてなりません。その結果として「日本九峰修行日記」の記述に結びついたのではと、想像をたくましくしています。

天孫降臨・日向神・天の岩戸そして岩戸山へと連なる日本神話。そのロマンを巧みに組み立てながら、「三重県の伊勢より当地の方が古い」と説いた、往時の村人たちの心意気に、心から喝采を送りたいものです。

 

(福岡県地方史研究連絡協議会副会長 佐々木四十臣)