矢部ある記(2)良成親王と大杣公園

御側の地に眠る

矢部村御側にある、後醍醐天皇の孫の良成親王墓所をご案内します。


後醍醐天皇は京都から吉野に移り南朝を立て、政権を取り戻すため七歳の皇子懐良親王を征西将軍とし、五条頼元たちと九州へ派遣されました。懐良親王が九州を制し、上洛を図る時下向された留守居役が、後村上天皇の皇子で六歳の良成親王でした。一三六六年頃です。

以降、良成親王は後征西将軍(二代目)として南朝隆盛に尽くしますが、北朝軍の今川了俊のために菊池から宇土へと追われ、八代ご在所の一三九二年、南北朝が合一し、南朝は消滅したのです。

良成親王は南朝再興をあきらめず、最後の砦と五条頼治が守る矢部の高屋城に逃れ、奥づめ大杣を御所としました。五条家蔵親王最後の書状(一三九五年)に「御在所大杣」と記されています。間もなく、三十七歳ごろ無念の薨去、忠臣五条頼治は密かに葬り草堂(釈迦堂)を建てて隠しました。親王の供人たちも大杣を離れず代々慰霊に努め、都唄という公卿唄が村人に歌いつがれました。

明治以降、墓所参道が整備

明治の世になり、高良山宮司の船曳鉄門が御側・草堂・御谷を見つけ国に上申、明治十一年宮内庁は「良成親王墓所」と定めます。草堂は東横に移され、墓所は五間四方の石柵で囲まれました。

それから毎年の命日に、慰霊行事・武道大会が実施され、今年も十月八日には「大杣公園祭」が八女市主催で開催されます。

明治末には墓所前に公園を開き参道も整備されました。開園の碑文には「村人こぞりて公園を開く、村・議会がこれを扶ける。古の御所跡をとどめるため大杣公園と命名する(大正六年)」と記されています。

明治二十六年には陸軍中将北白川宮能久親王が参詣しました。この年福島〜矢部間が県道として開通、明治三十七年には矢部村宮ノ尾から参道までの御側道路が、旧八女郡の事業として整備されています。

昭和五年には、参道を今のように改修、同年元帥の閑院宮載仁親王が、翌六年にはその王子で陸軍騎兵中尉閑院宮春仁王の妃が、良成親王墓所に参詣、大角岑生海軍大将も参拝したそうです。

公園東の直会所わきに、参詣記念を記す石碑が並んでいます。

墓所西には、親王が使用された湧水「三水の井」があり、御谷を下り御側川に注ぐ地を王谷尻といい、参道の起点です。御谷沿いに石畳を上れば石橋と欄干が迎えます。次は石段で四十五、上がって坂を進むと鬱蒼たる杉林に百十五の石段、壮観です。上りきるとだんだら坂が墓所へと誘います。良成親王・公卿衆を偲ぶ、徒歩十五分の懐古参道です。
御側の名の由来は、元が滅び漢族の明が建ち、呉音の発音マ行は漢音のバ行へと変化(さみしい→さびしい)しました。明から都を経て大杣にも伝わり、公卿たちはオオソマをオオソバと洒落ました。時を経て、良成親王のお側とかけて「御側」になったと思われます。都へ帰らず奥八女に留まった親王への、尊敬と感謝の念が込められています。

「姫御前藤」と「黒木の大藤」

黒木町には、良成親王を追ってきた妃姫御前の悲話がありますが、御側の女鹿野集落の山中腹に、昔は夜な夜な人魂が出没、妃を待つ親王とその従者とうわさされました。その下方川中のカツラに咲く藤は、妃の化身ともいわれ「姫御前藤」と呼んでいます。大杣公園の藤は、墓所下で墓守を務めた先々代の植栽とされます。また、「黒木の大藤」は、一三九五年頃良成親王のお手植えだそうです。堪能されたら、ぜひ大杣へもお運びください。

五月末、肥後八代で良成親王を守った湯野若佐守の末裔を訪ね、ゆかりの地をご案内いただきました。

はからずもご当地で、良成親王の御歌一首を頂戴しました ———。

みよしのの 吉野の奥の遠き世を一日も思い出でぬ日はなし

矢部村 山口久幸

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