矢部ある記(4)南北朝ゆかりの老松天満宮

(写真)天満宮

天満宮大鳥居と茅の輪

老松天満宮の由来

 第96代後醍醐天皇は建武の新政を成し、400年前の第60代醍醐天皇の政治を目ざされました。当時左右の大臣が藤原時平と菅原道真で、道真は朝廷を牛耳っていた藤原氏から、実権を天皇に取り戻そうとしました。しかし、藤原氏の策略により大宰府へ左遷、天満天神伝説が始まるのです。

 村のほぼ中央矢部村宮ノ尾には、老松天満宮があります。天満宮には「鎮座由来記録」なるものがあって、次のような内容が 記されているそうです。

 老松天満宮は、醍醐天皇の延喜10年(910)大和国の樹下(きのした)神社内にあったが、後醍後天皇が吉野に祀った。征西将軍懐良(かねなが)親王が大阪の千早城にこもられた時、城内に水がなくて困り老松天満宮に祈ったところ、たちまち風が起こり雲がわき、雨水にて多くの軍兵が救われた。その後征西将軍は九州へ下向、五條氏がお供をした。懐良親王が亡くなられた後、高藤九郎源師長(こうとうくろうみなもとのもろなが)(足利の高将高師直(もろなお)の同族という)が吉野の天満宮御神体の天神を負い、五條氏を慕って応永23年(1416)豊後国津江に達した。しかし、五條氏の所在は不明、藤九郎は御神体を七体彫り七所に祀ると願をかけて五條氏をさがした。六体を安置し七体目を彫っていたところで、五條氏が川崎庄にいると分かった(五條氏は矢部村の高屋城におり、当時川崎庄に属していた)。藤九郎が、老松天満宮と後醍醐天皇・懐良親王とのゆかりを話すと五條氏は感激し、しばらく高屋城に祀った。1422年六代目五條頼経(よりつね)が、御側川と矢部川本流(当時は三国川)の合流点の宮尾山に老松天満宮を創建、土地を寄進した。

宮ノ尾と天満宮

 地名宮ノ尾は、良成親王の大杣の宮(御所)への入り口であり、宮の先端にあたるという意味を込めたと思われます。

 市役所矢部支所の東側が宮尾山、天満宮はそのふもとです。石段を上がると大きな鳥居が見えます。これは、現矢部中学校の東を走る道路に立っていた八女津媛神社の大鳥居で、木材運搬に支障をきたし昭和15年(1940)頃に老松天満宮に移設されたそうです。

 宮原英斉神官・栗原守男総代を中心に50名の世話役が、村の総鎮守としての天満宮行事を復活させています。

 元日午前0時から新年の無事・無病を願う歳且祭、4月は五穀豊穣と息災を祈る春の大祭、7月は夏を元気に越す夏越(なごし)の祈願。夏越祭は子ども神輿を繰り出し、矢部村ならではの大きな茅(ちがや)の輪が鳥居に取り付けられます。参拝者は、厄落としとして8の字回りに輪をくぐって社殿に向かい、息災を念じます。11月末日には豊作と無事を感謝する秋の大祭礼(新嘗(にいなめ)祭)を行っています。新年と夏越の祭には、参詣者が年ごとに増えてきています。

藤九郎の遺言

 高藤九郎の子孫は、その後瀬高に住み、濱武(はまたけ)氏を名乗りました。当家には500年余藤九郎遺言として伝承があるそうです。

 元中9年(1392)、両統和合(南北朝合一)の後も良成親王は足利氏をにくみ、応永の年号用い給はず。(中略)良成親王薨御(こうぎょ)の際七名殉死せしが藤九郎特に残存の命を受け、その子基春兵衛(もとはるべえ)天神を奉じて瀬高に拠り、住吉丸を造りて舟主となって海路苦難の旅を続けたり。今なお天神は瀬高なる濱武家に安置し、地方人の開扇(かいせん)を乞い礼拝し篤く信じる由。良成親王薨御の後足利氏は草を分けてもその一統を根絶やしせんとし、大杣御所は足利氏の遺兵の総攻撃を受けて大苦戦をした。正長(しょうちょう)9年(1437)9月藤九郎は御陵墓に参拝、主従八名足利勢に襲われた。宮尾まで逃れたが、夜深く三国川の瀬音聞きつつ岩ケ渕のかたわら銀杏の下に自害して永眠せり。

藤九郎主従の供養

 矢部郵便局の裏に「藤九郎の墓」があり、以前は地主の新宮家や地域住民が管理していました。また、従者七人を供養したと思われる「七人塚」は矢部小学校東側駐車場に立っています。どちらも貴重な歴史遺産で、今も地元住人や小学校児童が花を供えたり手を合わせたりしています。村には44の神社があり、半数の22が菅原道真を祀る天満神社です。老松天満宮や各天満神社は、学問を奨励する・天神に豊作を願うほか、戦さの怨霊をしずめるため私たちの地域と密接にかかわったようです。

矢部村 山口久幸

【参考】 老松天満宮神官の話・矢部村誌・矢部村郷土史(昭和53年版)

 

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