八女あれこれ/番外編(1)

侍から陶工へ

四百年の歴史がある有田焼の名門、柿右衛門窯の第十四代当主で人間国宝だった陶芸家、酒井田柿右衛門先生が去る六月十五日朝、病院で死去されました。七十八歳。

その日、我が家に福岡市などのテレビや新聞社から幾本かの電話がありました。私はざっと七か月前、八女伝統工芸館が伝統工芸、日本の心と技をテーマに開いた先生のトークショーで質問役を務めましたので、ご逝去を悼む言葉の取材でした。

先生が有田焼の重鎮としてのお仕事ぶりはすでに新聞やテレビで報道されました。というわけで今日は「八女市と柿右衛門先生」にピントを合わせていちべつします。

ざっと四百余年前、先生のご先祖は現八女市酒井田地区の豪族でした。しかし、肥前の国(現佐賀県・長崎県)の大豪族だった龍造寺軍との一戦に破れました。当時六歳で一人だけ生き残った酒井田弥二郎(のちの円西)は敵軍の人質となり肥前へ連行されました。彼は成人して陶工となり二十歳のときに誕生したのが喜三右衛門さんでのちに初代柿右衛門となる人です。この人が我が国で初めて色絵磁器を作ったのです。ときに寛政二十年(一六四三年)で四十七歳でした。

先生と八女市との交流が次から次へと続くようになったのは横町町家交流館の開館(平成九年五月十七日)からでした。先生とお父上の作品など三十数点を展示した長期間の八女市での展覧会は二回、行いました。いつも満員でした。先生は会期中はよく来館されましたが私的でも高校時代の友人四、五人とよく八女市へおいでになりました。平成九年秋、お家族とおいでになった時は、当時の野田市長さんと三人で先生のご先祖様が討死された八女市立花町の旧辺春城付近を訪ねました。上辺春小学校の校庭から現在は果樹園となっている標高一〇〇メートルぐらいの昔の辺春城を望見しました。城址は四百余年前の惨劇を忘れたかのように穏やかな表情で連なっていました。先生は城址に向かって頭を深々とさげられ、その昔、戦死したご先祖とその家臣団のご冥福を祈られているようでした。私たちはその帰りに酒井田地区を訪ねました。同地区には酒井田家の女系のご一門(樋口姓)の方々五十数名が集合されていました。先生は同地区の公民館で大歓迎を受けました。また同地には平成十四年秋「酒井田氏一族発祥地」を刻んだ石製の記念碑が地元有志によって建てられています。

先生の生き方

既述したトークショーのことに移ります。当日、先生が語られた幾つかのご主張は、私がこれまで十数年の間に先生に教わった先生の大事な生き方でもありました。市広報でも報じていますが、主張の一つは「美しい」と「きれい」の違いで次のような説明でした。

『薬品を使って不純物を取り除いた絵の具は、きれいだが美しくはない。自然界に在り、絵の具の材料となる自然物の鉄や銅などは不純物を含んでいる。この不純物こそが陶磁器の絵の具として使ったときに自然の美、即ち作品に生命を与えるのである』と。

もう一つの名言は職人育成についてのご主張でした。先生は『職人になる人は不器用な人ほど良い人材です。器用な人は上手だといわれる年ごろになると作品に自分のクセが出て駄目です。不器用で素直な青年はこつこつと励んで立派な職人になります』と語られました。

ショーが終わって私的な話になったときに私が『来秋(今年の秋)八女での先生の展覧会をおねがいします』と申し上げると先生は『スケジュールがあえば開催したいですね』と返事されていました。先生は日本陶芸界での大きな存在でしたが、私たち素人にも姿勢が低く、心の優しい方でした。

八女市から去られるとき先生は『私のふる里、八女の皆さん、どうか私の仕事場(有田町)を訪ねてください。全従業員四十人と一緒になって歓迎します』と申されました。

(八女ふるさと塾名誉塾長/松田久彦)

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