八女あれこれ29 「わが師、わが友」その十二

日本海海戦と絣

今からざっと百年前、明治37、8年の日露戦争の最終戦を飾ったのは日本海海戦でした。海戦の日本側名参謀の素描と、同時代に織られた久留米絣の傑作品の挿話を記述します。NHKテレビの特別ドラマ「坂の上の雲」が昨秋から放映を始めたのに刺激を受けました。原作は司馬遼太郎さん(平成8年急逝、72歳)の代表作の一つです。話はいきなり横道にそれますが、司馬さんと私は同年齢で、戦時中の軍隊経験期間も同じぐらいです。ところがグレシャムの法則「悪貨は良貨を駆逐する」(注釈1)で天才的な作家だった良貨の司馬さんは早くも姿を消し、品質劣等の悪貨である私は厚かましくも今日まで馬齢を重ねています(閑話休題)。

原作「坂の上の雲」を私は三宮地嶽神社(長野)十数年前、文庫版(全8巻)で読み、近代日本の基礎を作った明治期の人たちの燃える精神に感激しました。また秋山真之(後述)という海軍の名参謀がいたことをこの本で知りました。

日清戦争(明治27、8年)後、ロシア帝国は露骨に極東への侵略政策をはじめ、沿海州から満州(現在の中国東北地方)を経て南下し朝鮮半島まで及びました。日本への圧迫も次第に強くなり、我が国の独立さえ脅かされる情勢になりました。そこで我が国は自衛のために全国民が一丸となって立ち上がったのが日露戦争でした。宣戦布告は明治37年2月10日。満州における陸戦では日本軍が一応押し気味でしたが、ロシア側では「敗戦」とは認めておらず、日露両国の運命は次に行われるであろう海戦に賭けられることになりました。

ロシアが欧州のバルト海から派遣したバルチック艦隊(戦艦8隻のほか巡洋艦、駆逐艦など約50隻)、これを迎え撃つ日本海軍、東郷平八郎大将率いる連合艦隊(戦艦四隻のほか巡洋艦、駆逐艦など約50隻)との決戦がどうなるか?世界各国の予想では「日本海軍はロシア艦隊にかなわない」でした。

ところが日本海軍には天才的な参謀、当時37歳の秋山真之中佐が健在でした。秋山は数年前から日本の古い水軍書を数十冊読み新戦術を編み出していました。ロシア艦隊は旗艦を先頭に50余隻が二列縦陣で対馬海峡へ入ってきました。ときに明治38年5月27日午後2時10分ごろでした。迎撃の隊形に入った東郷艦隊の主力14隻は、驚くなかれ敵艦隊の前方で横一文字の隊形へ変換し敵の頭をおさえたのです。海軍用語では「T字戦法」。秋山が考案した戦術です。この隊形は敵に船の横腹を見せるため標的になりやすく危険な戦法です。ロシア参謀は「東郷は狂したか」と一斉に発砲しましたが、砲手の腕が未熟で日本艦への命中弾はわずかでした。15分間でT字隊形を完了した東郷艦隊主力は全艦の片舷砲127門を一斉に敵の一番艦に集中させて戦闘不能に、次は127門で二番艦を沈め、この戦法で敵は支離滅裂となりました。その日の夜戦でも秋山戦法を活かした駆逐艦、水雷艇が残敵を沈めました。

2日間の日本軍の戦果は

  • 撃沈した軍艦は戦艦六隻、巡洋艦四、駆逐艦四、仮装巡洋艦など五、捕獲したもの戦艦二、駆逐艦など三、抑留したもの病院船二(ウラジオストクへの遁走に成功したロシア艦は小巡洋艦など四隻のみでした)

 

ロシア艦隊司令長官は負傷のため佐世保海軍病院で入院治療。ロシア軍戦死者約五千人、捕虜は六千百余人、これに対し日本軍の損害は水雷艇三隻沈没、戦死者百数十人でした。司馬さんは同著で「人類の戦争で、これほど完璧な勝利はこの戦いがはじめてでその後もなかった」と記述しています。


名参謀だった秋山真之は戦後、お役所内で突拍子もない言動が多くなり、一部では「一人格に天才と狂人が同居している」と噂されました。のち中将になりましたが病気がちで、大正7年2月永眠。50歳の若さでした。

《注釈一》英国の財政家グレシャム(1519〜79年)が唱えた法則「一国内の金属貨幣で法定価値が等しいもの(例えば一両小判)でも金の含有量の多い金貨(良貨)は退蔵されて姿を消し、それより質が劣る金貨(悪貨)が市中にはびこる」という社会現象。

「戦艦」モデルの絣

(写真)戦艦モデルの絣

日本海海戦での日本軍戦艦は旗艦三笠、富士ほか二隻でした。戦勝で軍艦をモデルにした久留米絣(フトンの皮)が約百年前に織られました。私が収集している明治期の絣十数点は私に語りかける「師匠」です。その一枚に「世界無雙、富士」(写真)があります。戦艦「富士」は明治30年に英国で製造した日本最初の戦艦です。海戦では戦艦ボロジノを撃沈するなど活躍しました。

フトン皮「富士」のサイズは180センチ×150センチ。海軍旗、日章旗など4本の旗は朱色に、海水はハナダ色(薄い藍色)です。かすり糸のくくり技術が活きています。染織の現代の名匠、森山虎雄さんは一見されて『現代でこれだけ高い技術を持った工人は数人でしょう』と語られました。約百年前「富士」などの絣は筑後地方農村の普通の婦女子が織ったものです。

明治期の新国民たちは一人一人が自発的に「立派な国家を作ろう」と一生懸命でした。明治日本の国民が持っていた一生懸命さが婦女子の仕事でも名品を生む結果となった、と思います。

(八女ふるさと塾塾長/松田久彦)

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