八女あれこれ25 「わが師、わが友」その八

(イラスト)(イラスト)八女あれこれ25「わが師、わが友」その八

「古代八女人」第一号

 「八女の伝統工芸の歴史」などの説明役として横町町家交流館へ時々出勤しています。去る日、小学生グループから『大昔、いまの八女地方に最初に人が住んだ時期はいつ頃ですか』との難問がありました。「八女市史」などを参考にして、少年たちと雑談的に語りました。
ざっと2、3万年前頃の海面は最も低い時代で、玄界灘周辺では現在の海面より140メートル以上も低下していました。(八女市史)当時、九州は「島」ではなくアジア大陸と陸続きでした。この頃の日本海は湖のような形で存在していました。中国北部や朝鮮半島からウマ、オオツノシカ、ナウマンゾウ(約30万年前から約3万年前まで日本および極東大陸に棲息した象―広辞苑)などが九州など日本本土へ渡ってきました。これらの動物を追ってアジア大陸の各地から日本本土へ移ってきた人々がありました。この集団の一部は各地方の先住民(後述)の祖先となりました。上陽町柴尾坂口峠付近では数十年前から古い人骨や馬の骨が出土していましたが、昭和53年にステゴドンゾウ(長鼻目に属する化石獣)の歯の化石が発見されました。太古に象が移りすんでいた証の一つとされています。
約1万年前頃、気候の温暖化で海水が増加し対馬海峡が開口し暖流が流入して九州は独立島となりました。現在の五島列島や瀬戸内海の数百の島々は2万年前頃の高い山が水没せずに残ったものです。この時代に属する遺物(ナイフ形石器など)は八女市立山山遺跡や広川町赤坂などで発見されています。しかし、同時代人は自然にできた洞穴などを利用し流浪の生活でしたので、具体的な住居跡の検出例は皆無に近いです。(久留米市史)
「古代八女人の第1号?」の質問に対して八女市教育委員会文化財担当者は『3500年くらい前の竪穴式住居跡(三軒から五軒)が発見され、人が一定期間住んでいた形跡があるアモメ遺跡(柳瀬)の人々でしょうね』と答えられました。アモメは小字名です。

海上の道

 「名も知らぬ遠き島より、流れ寄る椰子の実一つ」で始まる島崎藤村の名作「椰子の実」は民俗学者柳田国男(昭和37年88歳で逝去)の体験談がヒントになって作られたという挿話はよく知られています。明治30年(1897年)の夏、学生だった柳田は伊勢湾の伊良湖岬の海岸を散歩中に流れ着いている椰子の実を見つけました。藤村は友人の柳田から体験話を聞いて名詩を作りましたが、柳田は「椰子の実だけが流れ着いたのではなく、人もその昔、漂着したのではないか」と60年間考えた末、80歳前後で発表したのが大論文「海上の道」でした。柳田は日本列島への渡来人が丸木舟やイカダに乗って活発化したのは3000年前頃から2500年前頃とみました。中国大陸からの民が沖縄の宮古島に漂着したのが最初で次々に移住しました。移住が続いたのは「宝貝の魅力のため」と柳田は断定しています。3000年くらい前、宝貝は中国大陸では貨幣や装飾品として使用され最高の貴重品でした。その宝貝が宮古島周辺の海底にはごろごろしていました。「小石のごとく散乱している世の宝(宝貝のこと)を見つけたなどは一の民族(日本民族)の起源としては夢か伝奇のようであろうが私はこれよりももっとあり得べき解説を聴いていない」(「海上の道」)沖縄の島々に渡ってきた人たちは稲作民でもありました。時代と共に彼らは稲作に適した平野を求めて島から島へと北上し遂に九州島へ辿り着きました。
渡来民族の集団が南方から或は北方から日本列島へ辿り着いたときには既に前段で記述した先住民族の末裔たちが住んでいました。代表的な部族名は南九州の熊襲(のち隼人)現在の長崎県など全国各地に住んでいた土蜘蛛とよばれた人たち。アイヌ民族の祖先とされる蝦夷などです。
「日本人は単一民族ではない。アジア各地から様々の文化を運んできた渡来民と先住民とが混血混交しながら新しい民族文化を作っていった」(注釈)
「渡来民が中心となって作った稲作文化に妥協しなかった先住民の一部は山へ入って山人となった」(柳田国男「山人考」)ただし「山人の起源」については他に諸説があります。(文中敬称略)

〈注釈〉立花町出身の作家五木寛之、民俗学者沖浦和光両先生の対談集「辺界の輝き」(岩波書店)。同書は先住民族の文化を温かい目で評価した研究書です。五木先生には先住民をテーマにした作品が他にも多数あります。

(八女ふるさと塾塾長/松田久彦)

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