八女あれこれ17 「西南の役・余談」その五

老兵がんばる

西南戦争の史料に登場する脇役のなかに私を感動させた人物が数人います。その将兵に触れる前に同戦役の概略を一筆。戦役は明治10年2月25日(1877年)薩摩軍の鹿児島出陣で勃発し、同年9月24日、西郷隆盛以下薩摩軍幹部が鹿児島市城山に討死して終結しました。

薩軍の敗因を一口でいえば政府軍の近代的な物量戦に太刀打ち出来なかったからでした。政府軍に対し薩軍は兵力、弾薬量、軍資金など段違いに劣っていました。史料からまとめた両軍の「戦力比較表」(A表)を見てください。
A表で見られるような劣勢兵団の大小荷駄(おおこにだ)(弾薬・武器・兵量などの補給隊)を出陣のときから担当したのが桂久武(かつらひさたけ)でした。桂は48歳。明治初期の48歳といえば現代の年齢感覚で言えば70歳くらいでしょう。桂は老骨に鞭打って薩軍に投じ大小荷駄を担当したものの、軍資金欠乏のため戦役中の8ヶ月間、血の出るような辛酸の連続でした。前線へ送る米穀がなく麦粥で間に合わせたり、最終戦となった城山籠城戦では次の記録があります。(薩南血涙史)

戦力比較表
  政府軍 薩軍
動員兵力数 60,838人 31,700人
兵器(大砲) 199門 約60門
小銃弾消費量 約3,500万発
(一人当たり約600発)
約500万発
(一人当たり約150発)
軍資金(戦費) 約4,222万円 約100万円

「桂ほか2人は弾薬製造に当りしも、その材料欠乏し本営付の民家を捜索し錫の器等を以って日々製造したりしも、付近の付近の戸数限りあるを以って敵弾を収集して製造するに至れり・・・」

と刀折れ矢が尽きてゆく桂ら補給隊の姿が目に見えるようです。桂は戦役の最終日、9月24日未明、西郷隆盛と一緒に組をつくり城山中腹の本営から麓の陣地まで駆足で進撃しました。しかし、一行のうちで最初に敵弾に仆れたのは桂でした。

「血涙史」の末尾には桂父子の決別の場面が記述されています。城山落城の数日前に薩軍本営では「全滅は旦夕に迫った。少年兵だけでも落ち延びさせよう」と話が決まりました。桂久武は別の陣地を守っていた長男、兵吉(ひょうきち)16歳を呼び寄せて、『お前は少年だから家へ帰り父の志を継いでくれ』と頼みました。しかし兵吉は『私も一人の男子です。父に随って死を同じくすることを願います』と聞き入れず本営付近の陣地で落城の日に闘死したのでした。高齢、若齢の年齢を超越し、積年の志にむかって「己の道」を進む気迫を「思想」というのでしょうか。

西郷先生に会う

63名の同志と共に薩軍に加わっていた中津隊(中津市)隊長、増田宗太郎(ますだそうたろう)(31歳)に関する逸話です。

3月の田原坂戦に敗れた薩軍はそれ以後も九州の中部と南部地区の各戦線で百戦し百敗しました。ついに明治10年8月16日、延岡市にあった薩軍本営では、支援していた各地の士族隊(熊本協同や中津隊など十数隊)に対して解散命令を布告します。
「(略)降らんと欲する者は降り、死せんと欲する者は死し、その欲する所に任せよ」という悲壮な布告文です。この命令をうけて数日後から支援隊の大半は順々に政府軍に降りました。

この頃、中津隊隊長、増田宗太郎は同志を集めて言いました。『君らは故里へ帰り、我が党の赤心を郷里の人に伝えてくれ』と。これに応えて同志たちは『解散命令が出たのだから隊長も一緒に帰りましょう』と訴えました。宗太郎は心を奮い起こして口を開きました。『私はここに来て初めて西郷先生に会った。1日先生に接すれば3日の愛生ず。親愛、日に加わり去ることができない。今は善も悪も死生を先生と共にするのみです』と。同志らは感動し皆、泣いて時を過ごしました。(「南洲遺訓集」所載の”逸話”より)

一人だけ戦線に残った宗太郎は城山落城20日前の9月4日、鹿児島市街戦に参加し政府軍陣地(米倉)に斬り込み戦死しました。
(文中敬称略)

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