八女あれこれ13 「西南の役・余談」その一

最大の内戦

 ことしは明治10年(1877年)の西南の役から130年目に当たります。この戦役を契機として日本の近代は本格的に幕を開けるのですが、それにしても幾万の青年達の尊い血が流された内戦でした。
西南の役は明治10年2月15日、鹿児島の私学校生徒(註)を主力とする薩摩士族軍一万三千名が、西郷隆盛を総帥に擁立し蜂起したことにはじまりました。挙兵の名分は「西郷暗殺計画の真否を政府に尋問する」(八女市史)というものでした。
明治政府ではすぐ征討方針を決定し有栖川宮(ありすがわのみや)熾(たる)仁(ひと)親王を征討総督に任じ、官軍を九州へぞくぞくと派遣しました。西郷挙兵から約8カ月間、南九州一帯は戦場と化し官軍六万と薩軍(支援隊が加わり最大時三万一千名)との間に激戦が繰り返されました。しかし官軍の消耗戦術に薩軍は矢つき刀折れて敗れ、同年9月24日、総帥西郷隆盛以下薩軍幹部が鹿児島市、城山岩崎谷に討ち死にして終結しました。わが国史上、最大でまた最後の内戦でした。
戦役発生までは佐賀など各地で政府の近代化政策に反対する士族の乱が頻発していましたが、役後は終息しました。したがって政府は国策の富国強兵政策(資本主義による経済力の拡充と国民皆兵主義による軍事力の強大化)を専制的に推し進めてゆくことになります。

八女地方の青年達も官軍兵士として多数参戦しました。これは明治六年施行の徴兵令(満二十歳の男子を検査のうえ三年間の兵役に服務させる法律)によるもので従軍兵のなかから旧八女郡内では11名が戦死、現八女市内の戦死者は次の五柱です。(稿本八女郡史)


陸軍兵卒 山下良太郎(上妻)
歩兵二等卒 小川門吉(北川内)
一等卒 江崎久吉(三河)
歩兵伍長 中島恒吉(川崎)
歩兵兵卒 上野善吉(横山)


薩軍の北進戦術で戦線が熊本、福岡県境に接近しました。県境に在る八女地方住民の動揺は大きいものがありました。次号に記述予定です。

 

西郷、起つ

事は挙兵より半月前の明治10年1月29日に起こりました。鹿児島北郊、草牟田村の官軍弾薬庫を同村私学校分校生二十余名が焼酎の力をかりて襲い、小銃弾6万発を強奪したのです。生徒達による暴動は次第に一揆化して1月末日までつづき、この強奪事件は政府に討薩の名分を与える結果となりました。
当時、西郷は大隅半島の農家平?(ひらせ)家を宿にして猟をしていました。鹿児島で留守を守っていた私学校幹部達は、あわてて西郷の許へ急使を走らせました。急使は西郷の末弟、小兵衛と西郷側近の辺見十郎太でした。2人の急使から西郷が「状況」をきいた時の様子は一級資料「薩南血涙史」(大正元年、加治木常樹著)と司馬遼太郎の史伝「翔ぶが如く」が伝えています。司馬の記述を借ります。
「ときに西郷は昼めしの給仕を受けようとしていた。給仕は平?十助の娘、おふねで当時14歳。おふねはこのときの西郷の表情の変化とそのけわしさをながく記憶していた。それを後年、54歳のときに記録者に語っている。『シモタ!』西郷は最初、そうつぶやいたらしい。漢語でいえば『万事休す』である。 次いで辺見に対し怒気を発し、あたかも辺見が火薬庫破りの張本人でもあるかのように『汝(わい)ども、弾薬、とって何の用があるか』と言ったという。」
西郷の私学校創設の目的は、ロシアの南下に備えるための兵力養成にあったのです。この構想は吹きとびました。生徒達は弾薬強盗団として国家的犯罪者になったわけです。情に厚い西郷にしてみると教え子達を見捨てることが出来ず遂に「起つ」決意を固めたのでした。

〈註〉明治7年、西郷隆盛が鹿児島に設立した青少年陸軍学校。県下に分校を持ち約3,000名。

(八女ふるさと塾塾長/松田久彦)
 

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