八女あれこれ14 「西南の役・余談」その二

戦端ひらく

鹿児島から北上した薩軍は明治10年(1877年)の2月22、23両日、1万数千人の主力で官軍の本拠地、熊本城を奪い取るために攻撃しました。当時、熊本城内には官軍第六軍管司令部と歩兵第十三連隊の将兵、それに政府系官吏(県知事など)約3,300人が薩軍との決戦を避けて籠城戦術を採っていました。軍司令官は陸軍少将、谷干城(たにたてき)でした。

士族兵団すなわち薩軍の2日間にわたる猛攻に対して、農民出身が大半の鎮台兵は、よく耐えて応戦し城を守りとおしました。これからさき52日間の籠城作戦が成功したのは、加藤清正が築造した熊本城の“武者返し”の石垣など「守りに強い」造り方にも助けられたからでした。
政府の征討軍数万は2月22日から博多に次つぎと上陸、久留米、福島(八女)、玉名、山鹿方面へと南進しました。

一方、薩軍は熊本城は一部の兵力(2,000人)での包囲戦術に切り替えて、主力2万数1,000人を山鹿、玉名方面へ北進させました。両軍の尖兵部隊の戦闘が熊本、福岡県境ではじまりました。八女地方まで「砲声いんいんと相聞え、庶民はおどおどして騒ぐ・・・」(稿本八女郡史)状態となりました。学校は閉校され、南進途中の官軍部隊数千人が八女地方の各所に宿陣、とくに立花町辺春周辺には点々と台場(大砲陣地)が築造されました。同町のほとんどの家が慌てて家財道具を遠くの親類などへ荷車で運び出し、集落中は大騒動となりました。(立花町史)南筑後一帯では反政府派の士族達が動きはじめました。教育界のリーダー格だった酒井田出身の藩校明善堂助教、樋口眞幸(号、和堂、当時43歳)は身を挺して士族達の説得をつづけ、彼らの暴発を未然に防いだのでした。(八女市史)なお樋口は役後の明治14年に開校した公立中学中洲校(八女市山内)の初代校長をつとめるなど明治期の地域教育界に貢献しました。明治31年没、64歳。

 

「美少年」の墓

馬手(めて)に血刀弓手(ゆんで)に手綱(たづな)
馬上ゆたかに美少年
有名な田原坂甚句です。美少年のモデルとされる墓に去る日、広報編集子と2人でお詣りしました。場所は熊本県植木町荻迫薩軍台場跡。バス通りから細道を200メートルほど入ると起伏の激しい台地があり、台地の一隅に一見、古代の円墳を思わせる小さな饅頭型の塚がありました。塚の上に高さ40センチ位の墓石が建っていました。眠るのは束野(つかの)孝之丞(たかのじょう)という15歳の薩軍少年兵で都城市荘内の出身。
戦役から半世紀のちの昭和7年(1932年)に時の陸軍大臣荒木貞夫が感激して慰霊碑を贈っています。碑文には「西南ノ役、僅カ十五歳ニシテ薩軍ニ投ジ、奮戦、此地ニ没ス、時ニ明治十年二月廿八日、義軍遂ニ敗レシモ、君ガ英霊、永ク此ニ眠ラン」とあります。戦死日が2月28日となっているので、その前日の「高?の会戦」で重傷を負い、約10キロ南方のこの味方台場まで辿(たど)り着き、翌日こと切れたのでしょう。小さな墓には今日も近所の人達の手でお花とお水が手向(たむ)けられていました。

先日、熊本県植木町の郷土史家に電話したところ『美少年のモデルだと伝えられる少年兵は全部で5名います』とのことでした。そのうちの一人は村田(むらた)岩熊(いわぐま)という17歳で田原坂戦で戦死した少年です。岩熊は村田新八(薩軍大隊長)の長男でアメリカ留学中を切り上げて帰国し、自ら進んで薩軍に投じたのでした。父の新八は同年9月24日、総帥西郷隆盛に殉じて鹿児島市城山で戦死しています。

あとの3名はみな16、7歳で田原坂戦で戦死しています。(田原坂戦記は次号で)史家は『少年達は“生死は西郷先生と共に”を人生の目標として持っていたのでしょう、勇んで決死の戦いに向かった、ときいています』と語られました。
戦争はいつの時代も、敵、味方双方の貴重な青少年達を容赦なく殺します。

(写真)束野孝之丞の墓

追記

薩軍少年兵「束野孝之丞」の墓だとされる写真を見てください。墓銘の姓は「東野」(下部は風雪で崩落)となっています。郷土史家の話によると『当時、薩兵達は少年兵の骸を収容する時間がなく敗走しました。薩兵が現場に残した走り書きの「束野」の字を地元農民達が読み違えて石工に彫らせて建立したのでしょう』とのことでした。「束野」が正しい姓です。(薩軍戦死者名簿)(文中敬称略)

(八女ふるさと塾塾長/松田久彦)

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