八女あれこれ11 「赤穂義士・余話」その一

(写真)一念寺

 

寺坂吉衛門が眠る
(?)
一念寺(豊福)

義士の中に外国人?

 47士の中でただ一人の生き残り、寺坂吉右衛門の墓と伝えられる碑が豊福地区の一念寺裏山にあります(八女市史)。ということで2年前に本紙に「吉右衛門に関連する余録」を四篇連載しました。反響があり市内外の方(かた)から数件のご質問とご指摘がありました。

過日、市民の方から『47士の中に一人の外国人がいたのですか』と質問をうけました。『中国系三世の日本人がいました』と答えました。義士のなかでも過激派の一人だった武林(たけばやし)唯七(ただしち)(31歳)がその人です。福本日(にち)南(なん)著「元禄快挙録」や「三田村鳶魚(えんぎょ)全集」等に唯七の祖先が記述されています。豊臣秀吉が朝鮮半島を侵略した文禄の役(1591年)で日本軍は中国明軍とも戦い、多数の捕虜を収容して帰国しました。
その捕虜のなかに孟二寛(もうじかん)という明軍の医者がいました。孟は中国浙江(せっこう)省杭州府武林(ぶりん)の人でした。関西方面で帰化し開業医となり、姓を故郷の地名を日本語読みに変え、名は病気を治す意味で「武(たけ)林治庵(ばやしじあん)」と称しました。その子は純然とした日本人で更に姓を改めて「渡辺半右衛門」と名乗り、はじめて赤穂藩に役人として採用されました。唯七はその子ですから中国系三世の日本人となるわけです。唯七の赤穂藩での給与(禄(ろく))は僅(わず)か十両三人扶持(ぶち)(年間約150万円と1日につき米一升五合給付)の小禄でしたが、文武の業に通じていましたので主君、浅野内(あさのた)匠頭(くみのかみ)の側に仕えて小事の用を担当していました。この頃彼は姓を祖父の姓に復し、武林唯七と称しました。 唯七は江戸城での刃傷事件後は常に「即刻討入り」の過激派に属し、「高田の馬場の仇討ち」で有名な赤穂藩士(二百石)堀部安兵衛(33歳)の片腕的な存在でした。

武林唯七の討入り時の動きをみてみます。

義士隊が江戸本所の吉良(きらこ)上野(うずけの)介(すけ)邸へ夜襲をかけたのは元禄15年(1702年)12月14日(今の暦では15日)の午前4時頃でした。討入りは表門組(総指揮、大石内蔵助)と裏門組(指揮、大石主税)の二隊の乱入で行われ、唯七は表門組の「屋内斬込み隊」9名の中の一人で武器は長刀でした。八女にゆかりのある寺坂吉右衛門(38歳)は裏門組に属し「屋内斬込み隊」10名中の一員で携帯武器は槍でした(既報。この時の槍というのが一念寺に保管されています)。屋内斬込み隊の編成は青壮年義士達が主体で、しかも剣客と槍術家で固めていました。 義士隊の吉良邸討入りから引揚げまでの時間は2時間余でした。しかし、敵、味方双方の剣客同士が斬り合ったった戦闘時間は約40分間で、残りの1時間数十分は姿をくらました宿敵、上野介の探索に費やしたのでした。やっと物置部屋に隠れていた上野介を義士隊が発見し間(はざま)十次郎(25歳)が槍で突き、同時に唯七が長刀で斬り下げたのでした。首級を揚げたのは間十次郎(一説には唯七とも)でした。唯七は同志と共に翌16年2月4日、幕命により切腹しました。

捕虜の貢献

唯七の祖父は文禄の役の捕虜でした。文禄の役から8、9年後、徳川幕府では朝鮮国との友好を回復するため慶長十年(1605年)から数次にわたって捕虜5,000人余りを送還しました(「日本捕虜誌」)。

日本に残り帰化した捕虜たちはその後日本文化の各方面で貢献しました。とくに九州地方が現在、焼物のメッカとなっているその主因は帰化陶工達の功績です。有田焼は李(り)三平(さんぺい)が、朝倉郡と福岡市の高取焼は八山(はちざん)が、田川郡の上野(あがの)焼は 楷が、立花町の男の子焼などすべて捕虜陶工の開窯(かいよう)でした。薩摩焼は島津軍が連行した男女の朝鮮陶工八十余名が起こしたものです。彼らの末孫は西南の役(1877年)では士族として西郷軍に数十名が投じ、九名が戦死しました(「薩南血涙史」)。彼らは「在日280年」で日本人より一段と誠実で勇敢な「日本人」に育っていたのでした。
(八女ふるさと塾塾長/松田久彦)
 

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