八女あれこれ9 歴史を刻む屋根瓦

鬼瓦が競う

(写真)白壁の町並みの瓦屋根

  10月に八女市を主会場にして開催する「全国町並みゼミ」(10ページご参照)の宣伝ポスターを街角で見かけるようになりました。ポスターの図柄は本町筋(もとまちすじ)(後述)の瓦屋根群の鳥瞰図(ちょうかんず)です(前月号掲載)。本町筋(矢原、古松、京、宮野、紺屋、唐人の各町)には江戸後期から昭和前後までに建てられた木造白壁造りの町家(主に商家造り)が数か所で群れをつくり建っています。その総数は80余軒とききました。道道(みちみち)には古い歴史を持つ寺院や神社、石の祠(ほこら)、巨木、濠(ほり)がつづきます。人通りは少なく時たま仔猫が道を横断し「心が和(なご)む」風情を作っています。なかでも瓦屋根群の美しさが本町筋の特徴とされています。すでに40数年前に本町筋の町家群を調査された当時、九州大学教授、太田静六先生は、その名著「福岡県の民家とその周辺」で次のように記述されています。「旧福島町の町家で一番よく旧型を残すのは屋根で、大きな棟の両端に定紋(じょうもん)や屋号の入った鬼瓦を飾るなどして町家の特徴を出している。青空と白壁に映えながら大きな鬼瓦がそれぞれの意匠を変えて競う状は壮観であり美しい。裕福な旧福島町を高らかに誇っているようである」。

写真は白壁の町並みの瓦屋根

「禍(わざわい)」をバネに・・・

  本町筋の原形は城下町でした。江戸初期に在郷(ざいごう)町(まち)(江戸期、農村部に成立した商工業者が集住した地域)へと衣替えして再出発しました。が大火にたびたび見舞われました。火災の原因は町筋にはぜ蝋(ローソクなど)や和紙、照明器具(行灯、提灯など)を扱う家が多かったことでした。八女消防本部編「八女地方災害調査録」によると元禄期(1690年ごろ)から幕末までの約180年間に大火が10件発生し、焼失した家屋は延約500軒となっています。大火のたびにそれまでの草葺(ぶ)き屋根を改装し瓦屋根の木造建築へと少しづつ進みました。

なかでも文政11年(1828年)の台風で民家の主屋(特に屋根)の構造が一新されました。九州大学教授、宮本雅明先生の労作「都市空間の近世史研究」によると文政11年8月9日と24日の台風を契機として「瓦葺き塗込の土蔵造りの町家建築=八女地方では“居蔵(いぐら)造り”という=の普及が一挙に進みました」となっています。「文政11年台風」は同著によると、未曾有の大型台風で、北部九州の各藩内が大被害に遭い、久留米藩内でも8月9日と24日に久留米城下町と藩内で総計1万9200余軒の民家が全半壊した、となっています。

米府(べいふ)年表(ねんぴょう)(幕末、久留米藩士、戸田信一が編集した藩祖、有馬豊氏から約220年間の時歴の記録)を意訳すると「台風は夜11時から7時間、吹きっぱなしであった。高良山の杉、檜約3万本が吹き倒され、山中は透(す)き間だらけとなった。町や村で潰れた家はあまりに多くて数えることが出来ない」となっており、当時福島町内外にあった草葺き屋根はそのほとんどが吹き飛ばされた、と推測されています。本町筋で復旧事業としての居蔵造り町家が建ちはじめるのは天保9年(1838年)以降とされています。しかしこれはまた「仕事づくり」でもありました。八女市教委編「八女市伝建物群保存対策調査報告書」によると「耐久性に優れた土蔵造の町家の建設を可能にしたのは、特産品の生産に支えられた経済成長にあった。これらの特産品には和紙、仏壇、提灯、茶などが知られ、工芸品の提灯は文化13年(1816年)仏壇も文政4年(1821年)の創始とされ、土蔵造の町家の登場と軌を同じくする」と記されています。先人たちは火災や風水害などの禍をバネにして「仕事づくり」の町おこしを行ったのでした。前記「全国町並みゼミ八女福島大会」のうたい文句は「未来へ継承するぞ町並み文化」です。私たちの時代に、子や孫へ継承出来る新しい文化を、いかに創造するか、が問われているのです。

(八女ふるさと塾塾長/松田久彦)

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