八女あれこれ10 「憂国の士」物語

(写真)八女あれこれ10
(写真)大伴部博麻の碑

30年ぶりの帰国

 ざっと1,300年前の出来事です。身を捨ててまで愛国の精神を実行した一兵士の物語です。
わが国で最古の史書「日本書紀」には古い時代の八女地方に関係する事件や事績が幾篇か記述されています。「八女」の地名の起こりは景行紀18年(神話の時代)に、「磐井の乱」は継体紀21年(527年)に、そして持統紀4年(690年)のくだりには憂国の一兵士の帰国と、その兵士の行動を天皇さまが一般に知らせた公文書が記されています。
一兵士というのは大伴部(おおともべ)博(はか)麻(ま)のことで彼の事績は後述しますが、博麻は筑紫(ちくしの)国上陽(くにかみつやめの)郡(こおり)(旧八女郡の大半)の出身と記されています。因みに八女市上陽町の町名のおこりは上陽に由来しています。そして博麻の顕彰碑は上陽町北川内公園内に在ります。

以下、日本書紀など幾つかの歴史書を参考にして博麻の行動と当時の功績をまとめてみます。
第37代斉明天皇7年(661年)韓半島の百済(くだら)(当時、我が国の友好国)が唐、新羅(しらぎ)連合軍の侵攻をうけ滅亡しました。天皇は百済王などからの救援要請をうけ日本軍を出兵させました。博麻も一兵卒として従軍しました。日本軍は韓半島南部の各地で唐、新羅連合軍と連戦しましたが連敗しました。博麻は661年、唐軍の捕虜となり、唐の都、長安(現在の西安)へ連行されました。そこにはすでに捕虜となっていた日本軍兵士4名がいました。数年後に彼らは唐人の計画(唐の日本侵攻計画か?)があることを知りました。5名はこの情報を一日も早く本朝(日本政府)へ報(し)らせねばと、じりじりしましたが肝心の帰国旅費がありません。そのとき博麻が言いました。『わしの体を唐人の奴隷として売る。その金(かね)で君らは帰国せよ』と。4名は博麻の計らいに従って帰国し本朝に急を告げたのでした。そのご博麻はひとり唐にとどまること30年、やっと前述のように690年に新羅の外交官に連れられて帰国したのでした。
持統天皇は公文書を発して博麻の行動を讃えられました。「博麻よ。お前は母国を思い、己を売ってまで忠誠を示してくれた。感謝する。それ故にお前を従7位下の位(役人の課長級か?)に就ける外(1)ふとぎぬ(絹織物)十反(2)真綿十屯(1・68キログラムか?)(3)布三十反(4)稲千束(ぞく)(一束は十にぎり)(5)水田四町は曾孫まで引き継げ(6)課税は父族、母族、妻族まで免じる」と褒美(ほうび)を贈ってその行動を顕彰されたのでした。

写真は大伴部博麻の碑

「博麻物語」が教えるもの

 数年ぶりに上陽町北川内公園に建った大伴部博麻の碑を訪ねました。星野川にかかる石橋、寄口橋を渡ってすぐ右手に小山があり、ここが北川内公園。桜の林に囲まれた坂道を百メートルほど上ると風格のある老杉が並ぶ頂上です。その西部の一隅に顕彰碑が建っています。
石積みの基壇の正面に左右2本の花崗岩の石柱があり「尊朝愛国」「売身輸忠」の八文字が刻してあり、その奥に高さ2メートル余りの自然石に正確な書体で「大伴部博麻呂」と彫ってありました。主碑の裏面には「大日本史義烈伝博麻」の全文が刻してあります。この碑は文久3年7月(1863年)室園神社神職、小川柳、北川内村庄屋、木下甚助さんら村内有志の拠金によって建立されたものです。訪ねる人は今も絶えないのか、碑前の草むらには踏み跡が幾つも残っていました。「博麻物語」は私達に何を教えているのでしょうか。私達は運命的に日本人として生まれた以上、母国に愛情を持ち国を、そして故里を少しでもよくしようと努力するのは人間としての誇りです。しかし今は現代です。古代の人博麻のように「私」を捨てるのではなく「公」と「私」を共に活かす道を生み出すことが大切です。それを博麻は教えているのです。
(八女ふるさと塾塾長/松田久彦)

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