八女あれこれ8 政争期(幕末から明治)と筑後・その5

平村の隠れ家

(イラスト)八女あれこれ8
(写真)平彦助さんの旧居(平)

平彦助さんの旧居(平)

130余年前の幕末から明治初期にかけて平(たいら)村(現、八女市)の庄屋だった平彦助さん(後述)の旧居は、小字名の上屋敷と下屋敷の真ン中を走っている県道に面して建っていました。三千数百坪の広い屋敷の中にカヤぶき(鉄板補修)の大きな主屋と三棟の蔵がありました。小字名の「屋敷」はこの大邸宅に由来するのかも知れません。平家のご一門は現在、福岡市へ移住され建物だけが残っています。

前回記述した「久留米藩難事件」の一つの舞台となったのがこの大住居でした。藩難事件が深淵(ふかぶち)にはまり込んだ最大の原因は明治三年(1870年)反政府運動の首領として政府から指名手配されていた山口藩脱走者、大楽(だいらく)源太郎ら4名を筑後地方の庄屋、医者、豪農らがリレー式に1年間、隠匿したからでした。

  大楽源太郎は天保3年(1832年)萩の城下町で生まれ、少年期に日田の咸宜(かんぎ)園(えん)に入塾し、強い尊皇攘夷論者に育ちました。長じて長州藩士たちの中心人物となり、明治維新後は新政府官員達の堕落と専横ぶりを攻撃し、更に長州奇兵隊解散に反対して反乱を起こすなど反政府運動の急先鋒となりました。ついに政府から「朝廷ヲ覆敗(ふくはい)シ国家ヲ乱亡スル大罪人」として追われ身となり、古里を脱走して九州各地の同志宅を転々としました。大楽らが前記、平彦助さんを頼ってきたのは明治4年初頭。彦助さんもかねてから新政府批判の思想を持っていましたので、意気投合し彼らは同家を長期間アジト(地下運動者の隠れ家)として潜伏しました。

侠気(きょうき)の庄屋さん

稿本八女郡史(大正6年出版)によると、彦助さんは大楽らと毎晩のように酒宴をひらき政府批判の気炎をあげました。また大楽は琵琶(びわ)が好きだったようで、琵琶師が来るたびに表に飛び出して調子に乗るので、家人は発覚を恐れてヒヤヒヤだった、と記録されています。

私は今般の「藩難事件」の調査で「平彦助」という「素晴らしい庄屋さん」の存在を知りました。彦助さんは福島町(現、八女市)木下彦八さんの三男で幼いときに平村庄屋、平正助さんの養子となりました。前出書「郡史」には「平(たいら)家は家富み、父子とも義侠を好み、善(よ)く積み善く散ず」と気(き)っ風(ぷ)の良さを記述しています。彦助さんは長雨が続いた年や歳末などには生活苦の家庭には救助米を送ったり、商人に頼んで米の大安売りをさせたりしました。或る凶作の年には窮民を高価な日当で募集し、屋敷内に仮の小山を築造させました。この山を村民達は「救民山」とよびました。
しかし彦助さんは明治4年3月「指名手配者を隠匿した罪」で逮捕されました。政府側官憲の取調べは厳しいもので拷問をうけたのち禁獄100日の刑。同6年3月に出獄しましたが、すでに身体をこわしていました。病が続き寝起きも不自由な身体となりましたが、窮民の救済活動は続けました。「義侠」の志(こころざし)を貫いた人でした。明治21年4月没。48歳でした。
大楽ら4名の処置に悩んだ久留米藩では、明治4年3月16日夜、筑後川畔で暗殺しまいた。「窮鳥、懐に入れば猟師も殺さず」とありますが、懐に飛び込んできていた4羽の窮鳥を殺害したわけで、悲痛な事件でした。
  「藩難事件」では総数59名が逮捕、処罰されました。八女市史によると旧八女郡内で同事件に連座した庄屋、商人、農民などは13名にのぼっています。しかし明治22年の大赦で罪は消滅しました。

追記 久留米市の医師、松本茂先生の近著「久留米藩難から新選組まで」(海鳥社)は良い参考書です。

(八女ふるさと塾塾長/松田久彦)

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