八女あれこれ5 政争期(幕末から明治)と筑後・その2

佐幕派首領暗殺

(写真)本泰寺に眠る不破見作の墓 (久留米市寺町)

本泰寺に眠る不破見作の墓
(久留米市寺町)

 百数十年前、幕末期の封建制社会では「開国か攘夷か」の国や藩の政策が「暴力」で決まることが多々ありました。司馬遼太郎(以下敬称略)は幕末の政情を評して「暗殺者たちにとって殺人行為は政見演説だった」と解説しています(「司馬遼太郎が考えたこと」巻四)。
慶応4年(1868年)この年の9月8日から「明治」と改元されます。
年表を見ていると、この年が中央でも筑後地方でも「歴史が回転した」中心の年でした。
同年1月3、4日には鳥羽伏見の戦いがあり、尊攘派(尊皇攘夷)の新政府軍が開国派の幕府軍に大勝しました。そして同年1月26日夜には久留米 の城下町でも尊攘派の中、下層藩士24名によるクーデターがありました。夜10時ごろ役所(久留米城)から帰宅していた佐幕、開国派の重鎮、不破(ふわみ)美作(まさか)が路上で24名に襲われたのです。
「久留米藩一夕譚」(明治21年出版)によると「不破美作も刀を抜き合わせて30分ばかり戦いましたが力つき遂に命を取られ身首を異にしました」。不破47歳でした。
刺客達は首級と12か条の斬奸状(ざんかんじょう)(悪者を斬るについて、その趣旨をしたためた文書)を持って家老有馬主膳宅へ自主しました。久留米市誌では暗殺事件の説明を「不破は参政就任以来、佐幕説を主張し、王政復古宣言以後も自分の説を改めなかった」と記しています。
事件で藩の首脳者たちは狼狽(ろうばい)しました。そして取りあえず2月5日に開国派のエリート(前回ご参照)今井栄ら5名を処罰(役職追放)にする一方、暗殺した24名の「無罪」を発令しました。「不破の死を境にして佐幕派による反省は一朝にして崩壊した」(八女市史)。しかし国際感覚に富み開国派の人材だった不破の死は、その後、文明開化(近代化)の明治期を迎えて藩の大きな損失となります。

久留米隊出兵

領水野正名(まさな)が返り咲きます。水野は11年前、佐幕開国派の手によって追放され、京都で軟禁に近い生活を送っていた閣僚級の人物です。
藩政の実権が尊攘派に移った久留米藩では、遅蒔(おそま)きながら新政府軍への参加を表明しました。3月27日には有馬蔵人隊300人を京から関東方面へ出動させ、以後久留米から相次いで討幕隊を出兵させました(古賀幸雄著「久留米藩史覚書」)。久留米隊は現在の埼玉県下などで幕府軍と戦い連勝しました。
話は変わりますが新撰組局長、近藤勇は久留米隊の戦線近くでその最後を迎えます。新撰組はよく知られているように、幕府親衛隊の中のテロリスト集団でした。幕末までの5年間、京の街(まち)で尊攘派の志士達をばったばったと暗殺しました。しかし、慶応4年春ごろには幕府勢力の衰退と歩調を合わせるかのように組も衰残の集団に変わっていました。主要幹部達も離散していました。
同年4月3日、近藤は流(ながれ)川(がわ)の戦線(現、千葉県流川市)で手下約300の兵と共に政府軍に投降しました。彼は当時「大久保大和(やまと)」と改名していました。政府軍本営での取り調べに対しても大久保大和である旨を弁明しましたが、その時、政府軍のなかに、かつて新撰組を脱退し政府軍兵士に転身していた加納道之助がおり、加納は取り調べ中の大久保に対し『やぁ珍しや近藤氏(うじ)』と声をかけたので正体がばれました(子母沢寛著「新撰組始末記」)。
近藤の斬首は4月25日、板橋(現、東京都)の原っぱで公開で行われ首は京都の河原に晒(さら)されました。35歳でした。
佐幕派集団の一つの巨星だった近藤勇の晒し首は民衆に「歴史の転換」を教えました。この「転換」で久留米藩では明治期になっても政治的な思想の違いから多くの流血が続きます。
私達が現在、享受している文明的な現代生活は先人達のこのような流血の中から生まれているのです。忘れてはならない史実です。

(八女ふるさと塾塾長/松田久彦)

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