八女あれこれ6 政争期(幕末から明治)と筑後・その3

(イラスト)やめあれこれ6
(写真)本荘仲太先生が眠るお墓

志士たちの死

130余年前、国(藩)の将来を想い自分の信念(開国主義)を貫き通して刑死した学者で志士、本荘仲太先生(八女市出身)の話です。
  慶応4年1月(1868年)の鳥羽伏見の戦いにつづいて同年1月26日夜には久留米の城下町でクーデターがあり(前回ご参照)藩内閣は尊壌派(尊皇攘夷)に独占されました(同年9月8日から「明治」と改元)。

写真は本荘仲太先生が眠るお墓(大籠)

 権力を握った尊壌派による報復人事がはじまりました。秋霜(しゅうそう)烈日(れつじつ)、厳しいものでした。開国派幹部20余名の知行(支給された領地)没収や終身謹慎などにつづいて明治2年1月25日には開国主義者の中核派、本荘仲太先生を含む9名の藩士に「切腹」が発令されたのでした。

 処刑は同日夜、久留米市寺町、徳雲寺本堂前庭で行われました。仲太先生、51歳でした。

 仲太先生は本荘一郎先生(星川、八女山内、川崎塾々主で藩校明善堂教授)の二男。16歳で江戸へ出て儒学者や官学の昌平坂学問所で学びました。先生は青年時代から気骨があり才学抜群でした。帰国後は藩役所や明善堂教官、そのご藩主の命で江戸藩邸の講学所講官に就かれました。ところが藩邸内の役人達は上役も下役も皆、激動する政情に対しての危機意識がなく、のほほんと暮らしていました。仲太先生は憤慨して藩主に建言書(けんげんしょ)二篇を提出し、古里の将来に想いを至さぬ江戸詰藩士達をきびしく非難したのでした(この建言書が後年、図らずも尊壌派が先生を処断する理由となった[八女市史])。

 文久3年7月(1863年)帰国。公事(くじ)奉行添役(法政担当)に就き、名著「刑法草案」(共著)の出版や他藩との交渉役で尽力されました。なかでもグループのリーダー格、今井栄先生(刑死)と仲太先生ら開国派が幕末の五年間に実施した開明的政策は、久留米藩を当時、国内トップ級の雄藩に成長させました。開国派は「世界中の国と交流しよう」を合言葉に筑後地方の物産(木蝋、和紙、茶など)を増産して近隣諸国へ輸出しました。豊かになった経済力で英国や米国から軍艦を次々に購入(計七隻)し、国内屈指の海軍力を誇る藩となりました。しかし、前記のように開国主義者の処罰がつづき、開明政策はとん挫しました(古賀幸雄著「久留米藩史覚書」)。
  久留米市史は刑死事件などを総括して「久留米藩は内部抗争で(人材を失い)維新運動のバスに乗り遅れる結果となった」と慨嘆しています。

 なお、仲太先生のご末孫、本荘平(ひとし)先生(86歳)[八女市多世代交流館事業実行委員長]は市内津江で自適の生活を送られています。

スパイだった少年

私が若い頃に読んだ本から「鳥羽伏見の戦い」のこぼれ話を一筆。話は幕末です。薩摩藩(反幕府派)の最下級の武士、沢田幾蔵(16歳?)は上役から幕府方幹部の動静を探るスパイを命ぜられました。彼は江戸で幕府の要人、佐久間近江守の召使いとなり機密を探っていました。ところが程なく近江守に看破され斬刑となりかけました。近江守は彼の若年を憐れみ、旅費を与えて夜暗に逃亡させました。国元へ帰って数年後、幾蔵は生命の恩人近江守に恩を返すために脱藩して江戸へ行き再び近江守に仕えました。庶務担当として優秀な人材となりました。

 しばらくして前述の鳥羽伏見の戦いが勃発。近江守は幕府軍大隊長として出陣しました。幾蔵は近江守の身辺を終始護って奮戦しました。ついに近江守が戦死すると幾蔵はその死体に覆いかぶさり自刃したのでした。(「舟木宗治遺稿」大正八年刊)。

仲太先生と幾蔵青年の死は、私達に「人生の価値とは何か」を教えています。

(八女ふるさと塾塾長/松田久彦)

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