八女あれこれ4 政争期(幕末から明治)と筑後・その1

寺町を歩く

(写真)9士が斬られた徳雲寺の前庭

  久しぶりに久留米の寺町を再訪しました。西鉄久留米駅から北の方角へ歩いて10分位のところに、この古い通りは在ります。道幅は4メートル、全長約300メートルの道の両側に17軒の寺院が並んでいます。数百年の歴史を持つ伽藍(がらん)ばかりです。
  この通りは60数年前の私の通学路でした。そのころの寺院の塀と門には昔ながらの格式を示す形式が残っており、寺院群の風景を見ていると、上質の水墨画に触れたような感動がありました。しかし、今は時代の変遷からか、門も塀も本堂さえも、その半数が新しいデザインと素材(コンクリートなど)に変わっていました。新式意匠の鐘楼などを眺めながらてくてくと歩きました。通りの南入口から一ばん奥の右側に円明山、徳雲寺(臨済宗)があります。この本堂前庭で約130年前の明治2年、久留米藩士の俊英たち9名が藩(役所)の手で斬られました。九士のなかに八女出身の学者、本庄仲太(ほんじょうちゅうた)がありました(以下敬称略)。秀才たちの刑死事件に触れる前に、その頃の「時勢の変動」をみてゆくことにします。
  万延元年(1860年)旧暦3月3日、桜田門外で幕府の大老(首相)井伊直弼(いいなおすけ)が水戸藩浪士らに暗殺されました。この事件をきっかけにして幕府の独裁力は急に弱くなりました。
  幕府では朝廷と力を合わせて国政を行う「公武合体」運動を積極的に進めることにしました。「公」とは公家(くげ)のことでつまりは朝廷のことです。「武」とは武家のことで幕府をさしています。朝廷と幕府が手を結んで当時の国難(来航した黒船は軍事力の強大さをみせつけ幕府を威圧していた)に当たろうという運動でした。「公武合体」運動の悲しい出来事として私たちは「皇女、和宮(かずのみや)の哀話」を知っています。幕府では「公武合体」の手はじめとして、孝明天皇の妹君、和宮を第一四代将軍、徳川家茂(いえもち)の「お嫁さんに欲しい」と申し出ました。当時、和宮には婚約者の有栖川宮熾仁(たるひと)親王がありました。和宮は悩み抜かれたすえ「国家のためなら・・・」と家茂と結婚されました。時に文久2年2月(1862年)で家茂17歳、和宮は16歳でした。なお、家茂は20歳で病死しました。

藩論転転す

 久留米藩では文久3年11月に人事異動を行いました。江戸詰だった公武合体派で開国論者の用人次席(内閣次官級)の今井栄を国元詰(久留米)としました。帰国した今井は家老の有馬堅物(けんもつ)や参政(閣僚級)の不破美作(みまさか)とはかつて藩論を攘夷論から開国論に転換させました(八女市史である)。今井は同志を固めました。この中に本庄仲太もありました。今井は(開国派)は富国強兵(国内産業の振興による経済力と軍事力の強化)を目標に地場産業の振興策と海軍力の増強を推し進めました。この政策は5か年つづきました。しかしこの間、藩内の攘夷派は「今井は奸臣(かんしん)(わるだくみをする家来)だ」と反発を繰り返していました。
  国内の政情が急に変わりました。慶応3年10月14日(1867年)第十五代将軍徳川慶喜(よしのぶ)は大政を朝廷へ奉還しました。朝廷ではこの年12月9日に「王政復古」を宣言、ここに徳川幕府は倒れ尊皇攘夷を旗印とした新政府が成立しました。さらに慶応4年1月3、4日の鳥羽伏見の戦いで新政府軍は幕府軍に大勝しました。
  このような政治情勢をうけて久留米藩内の尊王攘夷派は力をもり返しました。小河真文(おごうまふみ)、佐々金平(ささきんぺい)など二十数名の青年たちは、藩の佐幕、開港派の重役暗殺を謀議したのでした。封建社会の当時、中、下級の武士達が藩の政治的政策を転換させるためには「暗殺」という手段以外にはなかったのでした。

(八女ふるさと塾塾長/松田久彦)

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