八女あれこれ1 国境の島と八女

尖閣諸島とは

(写真)魚釣島のカツオ節工場の前に立つ古賀辰四郎さん

東シナ海にぽつんと浮かぶ無人島、尖閣諸島が今や日本と中国の間で領土問題で対立し、国際事件になろうとしています。 しかし、この島を明治初期に発見(昭和45年の西日本新聞)し、開拓をしたのは八女の一青年でした。まず尖閣諸島の紹介からはじめます。 同諸島は沖縄本島の南西約300キロメートル、台湾の北東約190キロメートルのところにあり、魚釣島、南小島、北小島、久場島、大正島の5つの島と三つの岩礁からなっています。 行政上は沖縄県石垣市に属しています。この付近の海底(大陸棚)には豊富な石油資源と天然ガス層が埋蔵されていることが判明し、中国政府では十数年前から「諸島は自領なり」として、この海域で大掛かりな発掘調査を続けています。 日本政府では領海侵犯の恐れあり、として中国に抗議しています。 今後は「諸島」の領有権をめぐって、日中の摩擦が心配されていますが、後述する「八女の一青年」の行動で国際法上の「せんせん先占権」が証明されており、尖閣諸島が日本の領土であることは明白です。

前記の「八女の一青年」というのは古賀辰四郎さんのことです。辰四郎さんは安政3年(1856年)農業(製茶業)古賀喜平さんの三男として現在の八女市大字山内に生まれ川崎小学校に学びました。辰四郎さんは明治12年(1879年)23歳のとき八女茶の販路拡大を目指して沖縄に渡りました。ところが辰四郎さんが沖縄で発見したのは、八女茶とは関係のない新商売でした。 彼は行動力に富み多血質で失敗をおそれない青年でしたので後年、沖縄で数多くの事業を起こし、そして成功しています。 さて、最初の新商売というのは沖縄特産の夜光貝の採集と加工業でした。夜光貝はサザエに似た貝で、大きさは拳ぐらい、殻は厚く内面は真珠のような光沢があります。当時沖縄の人たちは肉だけを食べ殻は捨てていました。辰四郎さんは殻に目をつけたのです。高級ボタンの材料として外国へ輸出することにしました。毎年の輸出量は240トン、莫大な財力を得ました。この金を辰四郎さんは私有することを避け、沖縄近海の無人島の開発資金に回しました。いつも「国と地域民」の福利向上を心がけている事業家でした。明治17年(1884年)ごろから東シナ海の無人島、尖閣諸島、大東島、沖の神島などの探検を行い、政府へ開拓の申請をしました。明治28年には本籍を沖縄県那覇区に移しました。政府では明治29年に辰四郎さんに尖閣諸島の30年間無償貸与を認可しました。彼は約4平方キロメートルの魚釣島を中心にして、カツオ節製造工場、アホウドリの羽根加工場、鳥フン石採掘場などを設け最盛期には284人の島民が定住し一時は「古賀村」とも称されていました。大正期には御木本幸吉さんと組み、沖縄県内で真珠養殖事業を起こしたりしました。

また郷土への恩返しとして大正初期には長兄の国太郎さん、次兄の与助さんと三人共同で川崎村立図書館を寄贈され、現在は川崎小学校体育用具格納庫として使われています。

辰四郎さんは明治42年、沖縄県では2番目に当たる藍綬褒章が下賜され「産業の父」と尊敬されていましたが大正7年(1918年)63歳で亡くなりました。辰四郎さんの若き日の勇気ある行動こそが今日では、尖閣諸島を国際法上「日本領土」と証明する証となっており、国家のための功労者です。

後記尖閣諸島は昭和七年日本政府が辰四郎さんの長男善次さんに1万5千円で払い下げました。終戦後は米軍が射爆演習場としたため米軍から善次さんに年間1万ドルの借地料が払われていました。昭和53年善次さん死亡。後継者がなかったので諸島の所有権を友人に譲られました。平成14年10月日本政府は所有者から年間3千万円で島の借り上げを行い、現在に至っています。(資料を古賀家親籍から受けました)

(八女ふるさと塾塾長/松田久彦)

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