考古学や文献からひもとく岩戸山古墳(3)

筑紫君磐井と継体大王

両者の意外な共通点

大和に対して反旗を翻した筑紫君磐井が、継体大王に強い敵愾心を抱いていなかったと聞くと、意外に思われるかもしれない。磐井は、半島出兵に苦しむ豪族たちの立場を代弁した九州の英雄、他方、継体大王は地方の声に耳を傾けない専制的な君主というイメージが定着しているからだろう。しかし、考古学的に検討してみると、両者は意外にも共通点がある。このような議論ができるのも、日本考古学では珍しく、磐井の乱の主人公たちは、葬られた古墳が明らかだからだ。

筑紫君磐井は言うまでもなく福岡県八女市岩戸山古墳、継体大王は大阪府高槻市今城塚古墳である。両古墳は、発掘調査が蓄積されており、遺構や出土品についても新しい事実が判明しつつある。特に今城塚古墳では、整備に伴う発掘調査で周堤に埴輪群像が発見されたことをきっかけとして、継体大王は、新王朝の創始者のごとく、葬送儀礼や副葬品を前代から大きく革新させた人物であるという評価に変わってきた。彼が新しく創出した副葬品には、(1)馬具(三葉文杏葉)、(2)大刀(捻り環頭)、(3)埴輪(尾張型)、(4)須恵器(千里窯産)、(5)埴輪群像の樹立、(6)畿内型横穴式石室などが挙げられる。

このうち、三葉文杏葉や捻り環頭は石人石馬に表されている。須恵器も古墳時代の主たる生産地であった大阪府・陶邑古窯址群ではなく、墓所に近い産地の須恵器を用いる点は、八女古窯址群の須恵器が供献される岩戸山古墳と同じである。つまり、今城塚古墳と岩戸山古墳とは、副葬品などに共通点が少なくないと言えよう。さらに興味深いのは、今城塚古墳の被葬者、すなわち継体大王が九州で産出する馬門石製石棺に埋葬された可能性が指摘されていることだ。敵対していた両者が副葬品を共有し、継体大王は、あれだけ忌避していたはずの、九州の象徴である阿蘇の石棺を永遠の眠りの道具に採用したというのは、いかにもおかしな話である。

岩戸山古墳

岩戸山古墳と石人(復元)

写真提供:八女市教育委員会

磐井の乱の原因とは

そこで、ある仮説を思いついた。磐井と継体とは心底から敵対していたのではなく、協調した時期があったのではなかろうか。『日本書紀』には、磐井の鎮圧に派遣された近江毛野に「かつては同じ釜の飯を食っていた仲なのに・・・」と磐井は言い放ったとされるが、あながち脚色ではないのかもしれない。かりに、近江毛野と磐井が継体大王に仕えていたならば、副葬品の共通性も理解できる。古墳時代は、葬送儀礼の重みが現代よりもはるかに大きく、同盟の証として大王から配下の豪族に特定の器物が下賜されて、後に副葬品になったこともあり得ないことではない。磐井と継体との蜜月時代に、古墳のプランや副葬品のレパートリー、葬送儀礼の手順などもあらかた決まっていたのであろう。

それでも磐井の乱は起こった。原因はさまざまに考察されているが、私は継体大王の側に鎮圧せねばならない大きな理由があったと考える。磐井は言わずと知れた、北部九州有数の大豪族筑紫君である。一方、継体の方は「応神天皇五世の孫」として近江から招かれたが、その出自の真偽は分らない。しかも大和に入るのに20年かかっている。つまり、大和に権力基盤をもたない大王だったのではなかろうか。そのような人物が、権力を掌握するためには、新たなルールを創出して自分がその管理者になることだ。その時に最大の障害となったのは、地方に権力基盤を持った伝統的な豪族たちである。筑紫君はその最右翼の存在だったのではなかろうか。そこで、装飾古墳や石人石馬という「九州ルール」をこれ見よがしに振りかざす九州の古墳文化は、大和にとって修正されねばならないものだった。

継体大王は、自身の権威の正統性と在地首長の弱体化を同時にねらって、古墳文化の改革という大ばくちに打って出た。しかし、それが、250年以上続いてきた古墳文化を急速に衰退させたことは否めない。磐井の乱とは、英雄叙事詩の時代であった古墳文化から、漢字文化圏の一員として東アジア古代国家へ離陸するために避けては通ることができなかった、古代史上、最大の内乱であり悲劇だったのだ。

 

(九州国立博物館 河野一隆)