考古学や文献からひもとく岩戸山古墳(2)

岩戸山古墳の石製表飾“石人・石馬”

石人・石馬の伝承

久留米市と八女市を分けて東西に走る八女丘陵は、近世にさかのぼり「人形原」の俗称がある。その中央付近を貫通する国道の西に岩戸山古墳、東に乗場古墳があり、丘陵の西端近くに石人山古墳がある。阿蘇溶結凝灰岩で作られた等身大の武装石人が墳丘上やその周辺に立っているところから生じた俗称であった。なかでも筑紫君磐井の墓と伝えられる岩戸山古墳には、百余を超える石製表飾物が集中していたことが八世紀代の『筑後国風土記』(逸文)にも記録されている。その墳丘上には「石人石盾各六十枚」を立て巡らし、東西の「別区」には裁判の光景を再現したかのような石人・地に伏す裸形石人・盗物にあたる石猪四頭のほか、「石馬三疋・石殿三間・石蔵二間」が配されていたという。また、官軍に追捕された磐井は、豊前国の山中に逃れた。官軍の怒りおさまらず、石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち落としたという。

近代1900年前後から、東京人類学会の人々による現地踏査や石製品の新発見が中央学会誌上に紹介され、石人山古墳や岩戸山古墳発見の石人・石馬・石盾など四十余個があげられた。あわせてこれら石製品や埴輪が中国陵墓の石人石獣・土偶に起源するという両者の関係論まで提起されてきた。かくして中央学会の考古学者たちの調査も始まり、「筑後の石人」の名称で著名になった。森本六爾編著『石人石馬』(1929年)は太平洋戦争以前を代表する写真資料と解説の集大成版である。

石人・石馬

岩戸山古墳から出土した扁平石人(国指定重要文化財)

岩戸山古墳の石人・石馬

石人・石馬の出現は5世紀前半代の石神山古墳、石人山古墳、臼塚古墳、下山古墳、江田船山古墳など筑後・豊後・肥後地域の船形石棺・家形石棺・横口式家形石棺などの主体部直上や前面に、一乃至二個の石製短甲・靫・甲冑着装の武人などを樹立する在り方がみられる。武器・武具の持つ壁邪の呪力に仮托し、また被葬者を守衛して除魔鎮魂の役に就く武人の立姿を表している。それが6世紀前半代の岩戸山古墳に至って様子は一変する。

前述したように巨大化した前方後円墳の墳丘を取り巻いて各段築上に多くの「石人・石盾」を立て巡らしていたと伝えられている。1964年夏、この地域を襲った集中豪雨によって墳丘の一部が崩落して、はからずも多くの石製品が散乱する状態が現れた。円筒埴輪が並ぶ外側の段築平坦面に石刀・石靫などが散乱する有様は、まさに官軍によって破壊されたと伝える光景が再現されたようで、息を呑む想いであった。先学たちが石製品の品目から墳丘上に樹立された形象埴輪の内容を、より永久性と迫力ある石製品で表現したという指摘は、墳丘上から形象埴輪が発見されていない事実と相まって見事に実証されたのである。さらに東北にあたる方形広場(別区)には風土記の説明を思わせる石製品のほか、形象埴輪も多く発見されているが、すでに戦時中に畑地として開墾され、住古の地表面は完全に失われてしまったため、復元の手がかりすらつかめない。しかし風土記の記述から、筑紫君磐井が保有していた政庁や税倉・公開裁判の庭などを再現して磐井政権の強大さを誇示する意図が推察される。一般に古墳の築造は後継首長の最初の重要な仕事であるから、別区などを設定してもそこでは先代首長の鎮魂儀礼(埴輪祭儀)の諸行事が表現される。岩戸山古墳は磐井が生存中に築造した、所謂「寿墓」であったから、自身の現世における強大な支配権を後世にまで伝えようとする強い思考を表現したところにこの古墳の特異性がみられる。初期の首長霊の鎮魂を主とする石人の配置と異なり、数多くの石人(実際には扁平な靫の片面に人面や挙手状態を表現)や石盾・石刀・蓋などを立て巡らして、見る者を圧倒せしめる権勢誇示を意図していたところにもまた別区と通ずるものがあり、初期の石製品とは樹立の意味もかなり変質している。

石人・石馬の歴史的意義

磐井の乱後、筑後の古墳では石製表飾を多用する風は急速に後退する。ヤマト政権に反逆した豪族の権力を誇示する文化として否定されたからであろう。しかし武器・武具を並列する思考方法は、地下の横穴式石室を飾る彩色画として復活され、装飾古墳文化の盛行をもたらしていった。特に肥後地方では被葬者の眠る古墳を守衛する初期石人の思想が、その後も継承されていった。なかでも火(肥)君宗家の姫ノ城古墳では、十数個の石製蓋・靫・盾などが発見されていて、肥後における岩戸山古墳的存在であったことが察せられる。磐井の敗北はヤマト政権にとって北部九州の直接支配と、以後の朝鮮出兵の基地化を促進する転機となった。石人・石馬はこのような歴史的背景を秘めた記念物である。

 

(福岡大学名誉教授 小田富士雄)