矢部ある記(8)風の神

(写真)風の神

古書の発見

矢部村の臼ノ払地区は昔から吹き下ろしの風が強く、家々にはつんばり(支え棒)がしてあったと古老が語っていました。これを裏付ける記録が見つかったのです。

「昭和4年(1929)正月24日、臼ノ払地区はことのほか風害多きため、農作物の豊饒に恵まれず。如何にして風害少なからしめんとは地域民の異口同音の叫びであった。幸い佐賀県三養基郡中原村に、綾部八幡様とて風除けの神の鎮座を聞き、当地にお祀りしいく分でも風害を免れんとの合議まとまり長田・仁田原の二氏風の神を祀る佐賀綾部八幡に代参してお守り札を受けて帰る。両氏天神山に敷地として15歩あて計30歩の寄贈をし、各戸より出役し土地を開墾・杉木を植え道を作りこの清浄の地に八幡様を安置、奉安殿は石の祠を造営せり」と記録されていました。
家伝の箱を整理していた同地の仁田原石義氏が、和紙を閉じた古記帳を見つけ、歴史・文化に詳しい椎窓猛氏の許に持ち込みました。それは、地域挙げて取り組んだ人々の貴重な努力のあとだったのです。

綾部八幡

次は、綾部八幡本家の伝承です。
「天暦5年(951)佐賀県綾部地方は大水害と流行病に見舞われ人々は大変苦しんだ。そこで、僧隆信沙門が九千部山に風の神を祀り、一万巻の法華経を読み通す願を立て一生を捧げた。この風の神は守り神となり、人々の篤い信仰を受けた。
元久2年(1205)肥前佐賀の地頭藤原幸忠が鎌倉八幡宮の神を迎え守護神とし、九千部山の風の神もいっしょに祀った。こうして綾部八幡となった。7月15日、締め込み姿の若者3人が真竹に麻の小旗をくくり、神木の大銀杏に高く掲げる。9月24日まで小旗の様子を記録して天気を予知、豊作につなげた。日本最古の気象台とされている」とあります。

風の神まつりの復活

風の神鎮座以来、臼ノ払地区では風害の悩みが解消、村指折りの豊作地となりました。しかし、昭和6年(1931)満州事変、同12年日中戦争、16年には太平洋戦争に突入し、終戦から戦後の厳しい生活、昭和32年の日向神ダム建設・同47年鯛生金山の閉鉱など時代の激動は、まつりはもちろん風の神の存在さえ消し去ったのです。まつりの記録は、昭和12年で途絶えます。
先人の業績に感謝し地元の活性化を願って、臼ノ払地区は風の神まつりの復活に立ち上がりました。飯干地区振興協議会と矢部地域づくり協議会が支援、八女市も地域づくり提案事業を採択されました。平成24年10月15日、天神山の中腹で今も続く山の神まつりと合わせ「風の神・山の神まつり」(写真)が実施されました。83年前に鎮座した風の神の復活は、テレビ・新聞でも大きく報道されました。

風の神の御利益

7月4~11日、平成3年を思い起こさせる大型の台風8号が日本を襲いました。東シナ海で直角に曲がり鹿児島県に上陸、列島沿いに東上し、各地にかなりの被害をもたらしています。
台風一過、「直撃せんでよかったのオ」と風の神復活を推進した仁田原石義氏が来館、「風の神に、神酒一本密かに献じとった」との笑顔に、「おかげですね」と返し安堵の顔を見合わせました。
台風は、科学的には海水の温度の高低で説明されますが、一方で不思議な現象を「神・仏のおかげ」ということもあります。「神酒を密かに献じた」とは、風の神のお膝下が成せる業です。氏は冬季「風邪にも効く神様たい」と誇らしげでした。

開道記念碑

風を吹き下ろす一帯の山は正粉山と呼ばれ、明治43年(1910)には国有林伐採のため林道を通したと記念碑が建てられました。地元はじめ黒木町・上陽町・星野村の寄附者があります。村内外の地主ほか江碕済先生の矢部・黒木・ほくぜいぎじゅく[[2,226]]義塾ゆかりの名もあるようです。碑の文末には「利用者の利便は計り知れない。刻して官業の恩恵を永遠に伝え、寄附者も記す」と、想像を絶する喜びが形にされています。

当地区伝来の遺産「風の神」「開道記念碑」は、農業人口の高齢化や減少・山仕事の衰退・若年層の流出・訪来者の激減により、危機に瀕しています。しかし、地元では植樹・清掃はもちろん「先達の偉業を後世に残さねば」と、風の神・山の神まつりと記念碑保護に努めています。国道442号笹又橋手前を右折、左側に「開道記念碑」奥右手に「風の神」旗と美水が待っています。


(矢部村 山口久幸)

【参考】仁田原石義氏蔵の古記帳・佐賀県綾部八幡宮冊子・開道記念碑

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