八女あれこれ12 「赤穂義士・余話」その二

四十七士は刺客集団!

 私の勤め先、横町町家交流館に昨年「赤穂事件」(忠臣蔵の歴史学上の正式な名称)の研究者5氏がこもごも来訪されました。うちのお一人、福岡市の開業医K先生は赤穂事件を変わった角度から研究されている方(かた)でした。K先生の説によると四十七士は「人を暗殺すること」を目的としたグループだから「刺客集団」となります。非合法の刺客集団が国家権力のお膝元、江戸に長期間潜伏し、幕府警察網の目を潜り、どうして討入りが成功出来たのか? が話の中心となりました。

義士隊は討入り10か月前ごろから江戸へ潜入し、全員が医者、町人などに変装、変名し市中の10か所に借家に潜伏していました。そして宿敵、吉良家の偵察(屋敷の間取りや兵力など)や作戦会議を開いたりしていました。八女市に墓があるとされる義士の一人、寺坂吉右衛門(38歳)=変名、伴介=は主人の吉田忠左衛門(62歳)=変名、篠崎太郎兵衛=の手足となって上杉家(十五万石)の兵力探査を熱心に行いました。上杉家には吉良上野介(62歳)の長男、綱憲が養子に入り藩主に就いており、上杉軍の逆襲を警戒したのでした。

ここで目を転じ当時の警察体制をみてみます。

江戸期、江戸町方の治安維持の最高責任者は、南、北二か所の町奉行でした。町奉行の職は今日の東京都知事、警視総監、消防総監の職と最高裁判事の役まで兼務していました。二人の奉行の下に与力(よりき)(課長級)50騎、与力の下級に同心(どうしん)(係長級)240人。同心の「定町(じょうまち)廻り」は手下の目明(めあかし)(探偵)数人を引き連れて毎日昼夜、市中をパトロールし無法者をびしびし摘発、逮捕していました。このほか治安警護と火の番のため武家地には「辻番(つじばん)」、町人地には「自身番(じしんばん)」そして町々の木戸には「木戸番」がありました。

以上のような国家と地域民の警戒網が敷かれていた江戸市中で、武器を帯びた刺客たち47人もが、閉められた木戸を通過して吉良邸まで何の障害もなくどうして辿り着けたのでしょうか(これが私からK先生への質問でした)。

幕府はすべて承知

K先生は私の疑問に対して二論文を提示されました。一つは福岡市で開業医だった故、江下博彦先生が平成14年に発表された一文「討入りの演出者」(江下博彦著「七人の吉右衛門」所収)ともう一つは平成11年夏「日本医事新報」に東京都医師、板津安彦先生が発表された「吉良邸討入り成功の謎」です。特に「江下論文」は先生が10余年の歳月をかけ、文献100余冊を参考に、史蹟を探訪され足でお書きになった労作です。

 

二論文の要旨はほぼ同じです。抄出します。

  1. 幕府はすべて承知のうえで仇討ちをさせた。奉行所は町内5人組の通報で義士の誰が、どこで、何という変名で潜んでいるか、すべて判っていた。
  2. 幕府要人はこう考えた。義士の討入りは幕府に対する政治的なテロではなく、ただ旧主の遺恨を晴らすのが目的。ならば武士の情で討入りの日は木戸を開けさせ、同心の町廻りは脇道へ、と指示した。
  3. 元禄は太平の世で武士も町人も浮かれ気分で弛(たる)んでいた。幕府は仇討ちをやらせ、人心を引き締めるようと図った。
  4. 江戸城での刃傷事件後、上野介の世評が極端に悪化したので側用人(将軍のブレーン)柳沢吉保(よしやす)(のち十五万石、大老格に)は上野介に見切りをつけた。
  5. 上野介は上杉謙信の末孫。吉保は武田信玄の末流。両家は犬猿の仲にあった。
  6. 幕府では四十七士を「忠臣」として後世に伝えるため、武士に名誉な「切腹」で処罰した。

 

テロが心配される現代です。私達は諺に言う「天網恢々疎にして漏らさじ」(国家が悪人を捕らえるために張る網の目は大きく粗(あら)いが結局、取り逃がすことはない)—を願うのみです。
(八女ふるさと塾塾長/松田久彦)

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