八女あれこれ7 政争期(幕末から明治)と筑後・その4

(画像)やめあれこれ1

(写真)耿介四士の墓

耿介四士の墓
(遍照院・久留米市)

藩難事件

130余年前の明治3、4年に「久留米藩難事件」の名で歴史に残る出来事がありました。久留米藩の若者達と長州脱藩者が集団を組み、誕生早々の明治政府を打倒しようと計画、しかし露見して60数名が粛清された事件です。

政府打倒運動の久留米藩リーダーは藩士、小河真(ま)文(ふみ)と医者で学者の古松簡二(ふるまつかんじ)でした。小河は家禄三百石の中堅藩士で、若い藩士達の人望を集めていました。古松簡二は現、筑後市溝口の出身、本名は清水真(ま)郷(さと)でしたが父の出生地が現、八女市古松町でしたので「古松簡二」の変名で通しました。医学と儒学を学びのち明善堂教官、彼の弁説はいつも鮮やかで活気に満ちていましたので、青年志士はこぞって彼の許に参集し、自然と「古松党」が出来ていました。

明治3年(1870年)春ごろ、長州藩士で政府打倒運動の首領、大楽(だいらく)源太郎ら4名が、長州を追われ古松を頼って筑後地方へ潜入したことで事件は拡大してゆきました。

 結論から先に書きますと、小河らの陰謀は発覚し明治4年に小河と古松は逮捕され、小河は斬首刑、24歳。古松は終身刑で12年後の明治15年、石川島で獄死、48歳でした。長州脱走者4名は同年、筑後川畔で久留米藩士に暗殺されました(後述)。

  岳真也(がくしんや)著「日本史、敗者たちの言い分」(PHP文庫)がロングセラーになっています。史上で「敗者」となった例えば関ヶ原戦の敗将、石田三成を登場させ彼の「言い分」を代弁するなどの歴史読み物です。この伝で「敗者」とされている前述の小河や古松の「言い分」を代弁してみます。

反政府に立ち上がった理由は

  1. 新政府の実権が薩、長2藩出身の1部官員に独占されたこと。
  2. 維新運動の指導理念であった「尊皇攘夷」を新政府はあっさり捨てて開国主義(欧化主義)へ転換したこと。

当時の世相を司馬遼太郎は次のように書いています。
「昨日まで志士だった幾人かは“官員”となり、旧大名や旗本の大邸宅を接収して住んだ。そして彼らは比類のない高俸を得た。藩地に残った連中からみればこれほどばかばかしいことはない。自分たちが命を的にして革命戦を戦い、そして得た果実はすべて官(新政府)と官員が食い彼らを肥やすだけとなっただけでなく、彼らから支配される結果となった」(「司馬遼太郎が考えたこと」8巻)

久留米藩の若者達が新政府打倒を計画したのは、的はずれではありませんでした。しかし当時の政治体制では「野党」を育てる余地はありませんでした。

前述の長州藩脱藩者、大楽源太郎ら4名は明治3年春から1年間、小河ら藩士隊に助けられ政府の目を逃れて、八女地方の庄屋宅や豪農屋敷を転々とし各地で政府転覆運動をつづけました(次回に詳報予定)。

新政府では長州藩からの陳情をうけて明治4年2月に久留米藩討伐隊を高良山に着陣させました。3月10日に藩知事(旧藩主)有馬頼咸(よりしげ)に謹慎を命じ数日後、大参事水野正名と小河真文を逮捕(古松は別件ですでに逮捕ずみ)久留米藩幹部たちは隠匿している長州藩脱走者の処置に悩んだ末、同年3月16日夜、藩士達が四名を筑後川畔に誘い出して暗殺しました(従僕1名は自決させる)。

新政府軍はその後、関係した八女地方の庄屋など60余名を逮捕しました(このいきさつは次回で)。 裁判は東京で開廷され小河真文に斬首刑、水野正名など4名に終身刑(古松とも)その他総数60余名が処罰され、一応、事件は終止しました。

過日、久留米市寺町、遍照院(真言宗)を訪ね、暗殺された長州藩四名の墓「耿介(こうかい)4士の墓」にお詣りしました。墓碑は、明治26年に暗殺した旧藩士らが建立しました。「耿介」とは「節操を守ることが堅くて世俗と合わないさま」(広辞苑)とのこと。

「敗者」となった者、暗殺された者、暗殺した藩士達すべてが憂国の精神に燃えた若者達でした。

(八女ふるさと塾塾長/松田久彦)

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