八女福島の町並みとまちづくり活動の概要 |
| 編 集: 建設経済部都市計画課 |
八女市(やめし)の概要 |
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古代の八女地方は、大和朝廷(継体天皇時代)に対抗して戦った筑紫(つくし)君(きみ)磐(いわ)井(い)の墓とされる岩戸山古墳をはじめ、全国に知られる八女古墳群がある。これは、古代から定住の条件にかない筑紫国の中心として栄えたことを示している。
肥沃な耕土と豊かな自然環境に恵まれ、今ではブランドの八女茶、電照菊を中心にした全国に有数の農芸都市として知られている。
また、手工芸のまち、職人のまちでもある。中世に起源を持つといわれる手漉き和紙や石燈籠、近世に始まる仏壇、提灯、絣などといった多種多様な手工芸は江戸時代に産業としての基盤が形づくられ、現在に至るまで綿々と受け継がれている。今でもこれらの伝統産業に携わる職人も多く、裾野を広げれば約1万人はいるのではないかと言われている。 |
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八女(やめ)福島(ふくしま)の歴史 |
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城下町から在方町へ八女市の中心市街地・福島は天正15年(1587)筑紫広門が築いた福島城を、慶長5年(1600)関が原の戦いで功を上げ、筑後一円32万5千石(柳河城を本拠とした)に抜擢された田中吉政が、支城として大修築し、城下町をつくった後、大きく栄える。福島城は三重の堀によって囲み、中堀・外堀の南半には城を迂回する往還道路に沿って「町人地」を配したと考えられる。町人地の敷地はこの往還道路と中堀・外堀の間に短冊状に地割がなされている。元和6年(1620)当地は久留米藩有馬豊氏の支配下となり、福島城は廃城となったが、町人地はその後も八女地方の交通の要衝の地として、また、経済の中心地として発展する。福島は城下町としては短期間であったが、その間に都市の主要な骨格ができたと思われ、今も本丸跡、城堀跡の水路、屈曲した道路網等当時の面影を残している。 |
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近世以降八女地方は、和紙、ハゼ蝋、提灯、仏壇、石工品、茶など様々な特産品の開発やそれを素材とした工芸品の創作に取り組んできた。農産物の生産・流通の拠点であることに加え、積極的な商工業の振興による富の蓄積で重厚な商家が連続する町並みを形成していった。 |
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近代化とモータリゼーション発展は都市構造を大きく変えた |
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福島は明治に入っても往還道路沿いの町並みは依然として中心街として栄えたが、徐々に近代化の洗礼を受けることとなった。明治後期に入るとまちの北側に西から東へ国道442号、東側に北から南に国道3号が整備され、国鉄(現JR)羽犬塚駅から「馬車軌道」や久留米から「電気軌道」が通じ、交通網の整備や手段により国道442号と国道3号が交わる土橋(どばし)が八女の地の玄関口として栄えることとなった。その繁栄は戦後まで続いたが、昭和40年代以降には国道3号のバイパスの完成、九州自動車道八女インターの開設、国鉄(現JR)矢部線の廃止、福島を四角に囲む環状線道路の完成などにより車中心のまちの骨格が形成された。
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八女福島の町家建築 |
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町並みを保存・継承する市民活動 |
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| 市民が八女福島の町並みの価値に気づくきっかけとなったのは、1988年(S63)に東京町(ひがしきょうまち)の「旧木下家住宅」(堺屋)が市に寄贈され、修理・復原された(公開は1992年(H4)ことに始まる。また、1991年(H3)の大型台風によって被害を受けた伝統的町家が取り壊されて空き地になるなど、町並みが歯抜け状況になるのを見て危機感を感じた市民有志が、勉強会を重ね1993年(H5)にまちづくり活動を展開する市民団体「八女・本町筋を愛する会」を発足させ、「八女町屋まつり」が取り組まれた。この影響で八女福島の町並みに市民や観光客の関心が向けられるようになった。さらに、1994年(H6)にはまちづくり団体「八女ふるさと塾」が新たに発足し、八女福島の町並みを活かすまちづくり活動が、市民が主体的に実践する形で充実してきた。現在、地場産業でもある雛人形をアピールする「雛の里・八女ぼんぼりまつり」や伝統的町家をミニギャラリーとして伝統工芸品や絵画などを展示する「八女白壁ギャラリーめぐり」など町並みを舞台としたイベントが、様々なまちづくり団体が参画して実行委員会方式で取り組まれ、定着してきている。 | ||||||||||
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市民と行政が協働するまちづくりの展開 |
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国の支援事業として「街なみ環境整備事業」「伝統的建造物群保存地区保存事業」を活用 |
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| 前述の町並みを保存活用する市民のまちづくり活動の気運に応えて、1993年度(H5)から市は、住民の理解と協力のもとに建築物等の修理・修景事業や住環境の整備を行うために、建設省(現国土交通省)の「街なみ環境整備事業」の導入を検討し始め、1995年度(H7)から事業をスタートさせた。1997年(H9)5月には町並みの情報発信の拠点、そして市民の交流の場として造り酒屋跡を買収整備し「横町町家交流館」を開館した。 事業導入に先立って、1994年度(H6)には事業対象地区の住民によって「景観のまちづくり協定」が締結され、協定者の代表による「八女福島伝統的町並み協定運営委員会」が組織された。この委員会は、事業内容やまちづくりについて協議し、地元住民と行政との調整をする役割も担っている。 徐々に保存整備の成果が見えてくるにつれ、町並みを歴史的文化遺産として後世に残し伝えていくため、建築物等の修理・修景事業に対して、長期に継続して国の支援制度が受けられる文化庁の「伝統的建造物群保存地区制度」(=伝建制度)を導入できないかと検討するに至った。1996〜1997年度(H8〜9)に国の支援で保存対策調査(調査団:九州大学(当時・九州芸術工科大学)の宮本雅明教授と西山徳明教授が中心メンバー)を行い、学術的に高い評価を受けた。その後、1999年(H11)市商工観光課に特徴あるまちづくり係を設置し、町並みを活かしたまちづくり事業を一本化し、予定保存地区内の住民の合意形成を具体的に取り組み、2001年(H13)6月に「八女市文化的景観条例」(文化的景観=地域性豊かな伝統的な建造物群と周囲の大切な環境とが一体となって、地域の歴史と文化を表している景観のことである。)を制定した。同年12月末に保存地区の都市計画決定を行い、伝建制度をスタートさせるとともに、2002年(H14)5月に国の「重要伝統的建造物群保存地区」(=重伝建地区、全国61番目)の選定を受けることができた。 しかし、伝建制度導入は困難な道のりであったと言える。三つの大きな山があった。まず第一の山は、住民合意だった。建築行為へのルールづくり(高さは二階建てまで、構造は木造など)を行い町並みの文化的景観を半永久的に維持しなければならない。街なみ環境整備事業の実績があり住民意識は少しずつ向上していたし、さらに、市民活動の活発化などでリーダーたちが先導役を果たしてくれ、一年間を超える住民組織と行政の一致協力した取り組みの中で、80%に近い住民同意を得ることができた。第二の山は、市全体への市民的合意形成だった。市民の代表である市議会で、伝建制度を盛り込んだ「文化的景観条例」を可決してもらわなければならない。長期的に継続して予算も必要であり、まちづくりの大きな柱であるとともに、中心市街地の活性化策の柱でもある。したがって、先人のあらゆる知恵が凝縮されている文化遺産を後世に伝え残す義務があるとともに、住民と市が一致協力してこの文化遺産をまちのイメージブランドに高めていく努力を持続させていくので、必ず波及的に経済的効果が生まれてくると、議会で丁寧に粘り強く説明した。議員の皆さんに住民の情熱を受け止めていただき、満場一致で可決された。 第三の山は、保存地区の都市計画決定であった。30年以上も前のこととは言え、保存地区の中央を南北に計画された都市計画道路計画があった。現在の幅員9mを計画どおりに22m〜25mに拡幅すれば保存地区は真二つに分断され、町並みを壊してしまうことになる。中止を含めた大胆な見直しが必要だが、時間がかかる。住民の町並み保存に対する情熱とそれに裏打ちされた市の姿勢が、都市計画マスタープランを作成し早い時期に見直しをするということで前に進むことができた。 |
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伝建地区周辺のまちづくり資源 |
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繁栄の記憶を魅力づくりへ |
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町並み保存技術継承へ建築集団の発足 |
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空き家の保存活用へ積極的な展開 |
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文化的景観の継承と創造はまちづくりの主役に |
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| このダイナミックで見事な秩序を持つ八女福島の町並みの保存と継承は、単なる見栄えの良くなる景観整備からその背後にある空間構成の原理まで踏み込み、常にこれからの時代の創造活動と連動しつつ、一つひとつの町家が輝いた時代の意匠などを追及して本物を残し伝えたい。そして、綿々と受け継がれてきた地域の文化やコミュニティとともに継承したい。 また、課題は多い。第一は、技術者の確保である。特に修理・修景事業の場合は、床下や小屋裏に潜るなどしてきちんとした履歴調査と基準に基づいた設計や施工が必要であり、それを業と成す建築士や大工・左官などの職人さんの育成がますます重要になってきている。(八女福島は第一の課題は、一歩踏み出している。)第二は、賑わいを取り戻していくソフトの構築である。中心市街地の空洞化は深刻になっている。特に空き家、空き店舗の数は既にかなりの数がある。その中で、町家の所有者で地元を離れ遠くに住んでいて帰ってくる見込みのないケースの場合は、建物の維持管理が出来ないため、解体し更地にして売買を希望するケースが多い。住民と行政が連携し、所有者と借り手や買い手(店を開きたい人や住みたい人)へサポートしていく充実したシステムの構築を推進しなければならない。(八女福島は第二の課題も、試行錯誤ではあるが一歩踏み出している。)また、商店街と町並み保存地区のリーダーが日常的な意見交換を含めたコミュニケーションの場をつくり、継続的に活動の輪を拡大しなければならない。そして、複数のNPO組織の発足をめざしたい。第三は、伝建地区の周辺や市全体の文化景観をどう育てていくかである。2005年全面施行となった「景観法」を追い風として、地域固有の景観を守り創造しなければならない。循環型の地域社会づくりというキーワードを市民と行政が共有し、専門家のサポートを受けながら、八女らしい文化景観を市のブランドに高めていくという長期戦略を描き、着実に実践していけば生業も循環型(建築物等の材料、技術者、職人などを地域でまかなっていく)で定着していくものと思われる。そうなれば多くの市民の支援を得やすく50年、100年とスパーンの長い持続的で大きな目標を持つ施策として展開できるのではないだろうか。 複雑で困難な課題が山積みしているが、常に市民と行政が響きあう協働のまちづくりを意識しながら、外からのサポーターの参画を積極的に受け入れて、八女の魅力を研き輝かせる取り組みを追及していくことが、八女福島のまちづくりの原点である。 |
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資料:市街地における「八女福島のまちづくり」の取り組み経緯(PDFファイル) |
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建設経済部都市計画課(電話:23−2577)まで